解説
『歓楽と犯罪のモンマルトル』(筑摩書房)
シュヴァリエのエレガンス
ルイ・シュヴァリエの『歓楽と犯罪のモンマルトル』がこのたびようやく「ちくま学芸文庫」の一冊に加えられることとなった。訳者のひとりとしてこれほどうれしいことはない。というのも、この本、一九八六年の五月に文藝春秋から刊行されると同時にほとんどの書評で取り上げられ、読書界で大好評をもって迎えられたにもかかわらず、その後十三年間に一度も再刊されることなく、長らく、古本屋でも見かけない幻の名著となっていたからである。訳者であるこの私ですら、訳者用献呈本を配ってしまったあとは、わずかに手元に一部あるきりで、友人たちからの問い合わせにも、「訳者でも持っていないんだよ」と答えるほかなかったのである。その意味で、これほど文庫化に値する本も珍しいが、しかし、その本当の価値は、希少性ではなく、やはり圧倒的としか形容するほかないその内容と方法にある。
まず内容。これに文句をつける勇気のある者は日本にひとりもいないだろう。近年、盛り場社会学と称して、銀座や浅草、新宿や渋谷の興隆と衰退を研究する本が次々に書かれているが、渉猟した資料の幅と量、さらに対象に対する愛情の深さにおいて、おれはシュヴァリエに勝ったと豪語できる研究者がいたらお目にかかりたいものである。聖から俗まで、およそ今日あるようなモンマルトル神話の形作ったあらゆるものがここには詰め込まれている。世界で一番有名なキャバレー『ムーラン・ルージュ』から悪臭漂う裏路地まで、時間旅行者シュヴァリエが足を踏み入れなかったモンマルトルはひとつとしてない。都市社会史の金字塔といわれるのもむべなるかなである。
次に方法。シュヴァリエは元来、人口統計学の大権威だが、本書ではあえて、その科学的方法を捨て、むしろ、文学的ともいえる方法に訴えている。つまり、まず文学作品に登場するモンマルトルを子細に検討して、そこに現れてくるモンマルトルの心理的イメージを抽出し、次に、その「裏」を新聞の三面記事や回想録などで取ってゆくのである。この「裏」の取り方がすごい。つまり、今日では完全に忘れられてしまった十九世紀から二十世紀のモンマルトルの「いま」を蘇らせるために、シュヴァリエは新聞記事はおろか絵画やイラストなどヴィジュアル資料までほとんど気が遠くなるほどの量を読み込んでゆくのである。しかも、その資料の使い方が、「わたしはこれだけ勉強しました。どうです、偉いでしょう」といった野暮な学者先生によくある類いの見せびらかしではない点が見事である。
すなわち、シュヴァリエは、ユゴーがノートル・ダム寺院について、あるいはブローデルが地中海についてやったように、モンマルトルを、ひとりのとてつもない悪女を主人公にしたファム・ファタル小説でも物語るように筆を進めているが、その軽やかでエスプリのきいた筆致を下支えする地道な資料解読の過程については、けっしてそれを示そうとはしない。アカデミックな歴史学者にいわせると、これがいけないというが、私にいわせれば、「汚れた下着は家で洗っておけ」というフランスの格言にあるこのダンディズムがなんとも粋に思える。資料解読の痕跡を消したエレガンスが素晴らしい。
だが、一読者としては粋でエレガントに見えるこのシュヴァリエの方法と文体は、訳者にとっては、泣きたくなるほどの苦労となって現れるのである。一例をあげれば、シュヴァリエはキャバレーやレストランの固有名詞をなんの説明もなく使っているが、訳する方としては、それがキャバレーなのかレストランなのかでは意味の取り方が全然ちがってくる。しかし、シュヴァリエはそんなことはわかって当たり前という前提で筆を進めているので、シュヴァリエが消し去った資料解読の痕跡をこちらで復元しなければならなくなる。
最初のうち、この復元作業が苦痛だった。ところが、しばらく、これをやっているうちに、あるときから、急におもしろくなりだした。固有名詞というのは、それに込められたニュアンスが狭い共同体のサークルに限られるという面があるから、隠語や符丁に似て、初めは何がなんだかわからないが、それに慣れると、にわかに愛着が生まれるものなのである。
こうして、私は、キャバレーやレストランの固有名詞を介して、十九世紀パリ風俗のおもしろさに取りつかれていった。そして、気がつくと、十九世紀パリ風俗の復元のために、古本収集の道に入り込み、もはや引き返しは不可能の地点まで来てしまっていたのである。
十九世紀パリ風俗と古本収集という、後の私の「専門」は『歓楽と犯罪のモンマルトル』をきっかけにして決定されたといっていい。この意味で、『歓楽と犯罪のモンマルトル』との出会いは、私にとって、まさに運命的なものだったのである。
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