書評

『かりのそらね』(思潮社)

  • 2017/09/14
かりのそらね / 入沢 康夫
かりのそらね
  • 著者:入沢 康夫
  • 出版社:思潮社
  • 装丁:単行本(0ページ)
  • ISBN-10:4783730423
  • ISBN-13:978-4783730422
内容紹介:
「現代詩手帖」好評連載「偽記憶」と、同誌に一挙に掲載されて話題を呼んだ長篇詩「かはづ鳴く池の方へ」が、『わが出雲・わが鎮魂』への自らの回答として合わせ鏡のようにひとつに綴じられる。仮構された故郷への10篇の「思ひ出」、隠岐の島に重層化された後鳥羽院にまつわる「虚」―入沢康夫の屹立する現在。

『かりのそらね』他註

一九七七年三月号「現代詩手帖」に載つた入沢康夫と那珂太郎の相互改作に接したときの驚きと喜びはいまなほ記憶に新しい。「わが出雲」も「はかた」も私がこよなく愛する作品だつたからであり、同時代を代表する詩人ふたりが、詩人としての世界観と言語意識をかけて相互改作と「注」に専心するさまはまさに刺戟的といふほかなかつたからでもある。いま引用する暇(いとま)はないが、それをもとに纏められた『重層形式による詩の試み』(一九七九、書肆山田)はもつと論じられてしかるべきであらう。そこには入沢康夫の詩の世界を解く鍵がいくつも隠されてゐる。今回、「他註」の試みをなすのは、ひとへに入沢康夫に対する四十年近い敬愛のゆゑではあるけれど、結局は素人の妄言に過ぎぬかもしれず、それは予めご海容を願ひたい。

*たよりなく行く雁の 漢書蘇武伝に云ふ「雁のたより」に通じる。何も伝へてはくれぬ心もとなき雁とは「何も伝へてはくれぬ、よそから借りた、はかなげな仮の言葉=遠い記憶」とも重なるだらう。この場合「かり」とは作者の云ふやうに「雁」であり「仮」であり「借」であり「そらね」とは「虚音」であり「虚言」であるとともに「空音」でもあり、また、目覚めと夢のあはひをゆくことからして「空寝」でもある。すなはち「かりのそらね」とは偽の言葉にして幻の音にほかならず、「偽記憶」(言葉で綴られる偽の記憶)と「かはづ鳴く」(空音にして幻の音)を束ねる総題としてまことにふさはしい。「かつて母親から伝へられた」(偽の言葉・偽記憶)「一節を 途切れ途切れの口笛」(幻の音)で吹く少年が「結びのことば」の最後にあらはれるのは象徴的である。

*海辺の町の思ひ出 「思ひ出」と「記憶」といふ言葉は入沢康夫の読者には親しい。「薄明の中の中二階の想ひ出」「ある沼の記憶」「楽園の想ひ出」「七月・舟旅の思ひ出」「今一つの舟旅の想ひ出」「部屋さがしの想ひ出」「いやはての舟  旅の思ひ出」といつた詩以外にも「夢の錆 あるいは過去への遡及」「個人的に・感傷的に――死者たちの群がる風景2」「鳥籠に春が……――死者たちの群がる風景3」「少年時」「お伽芝居」「潜戸(くけど)、三たび」をはじめとする、押し寄せる「記憶/偽記憶」の奔流にあらがひつつもそれを受け入れる作品がある。今は昔、が語られながら、その昔が果して現実に存在してゐたのかいつのまにかわからなくなり、すべてが言葉だけの、ほとんどが「虚」かもしれない「記憶」に転化してゆく作品が。読者はそれゆゑ、「偽記憶」を構成する作品群に、作者個人の過去を超えてみづからの過去に繋がりうる「記憶」を読み取らなくてはならない。「歌――耐へる夜の」の一節「おまへは過去にこだはり過ぎるぞ」はむしろ、過去にこだはる作者の精神的姿勢を裏返しに表明したものにほかならない。

*十七歳の私(「藁の蛇の思ひ出」) 詩のなかに具体的な年齢が示されるのは、「ランゲルハンス氏の島 1」の「十七になる令嬢に数字を教えてほしい」が最初ではないかと思はれるが、以後、同じく「ランゲルハンス氏の島 」に登場する「八十九歳のかじ屋」、「鬼百合の花粉……」の「ソーダファウンテンの女店員 二十七歳」、「わが出雲(第一のエスキス)」の「三歳の啞の子」を経て、「私」の年齢が明示される作品が姿をあらはす。「偽記憶」全十篇には「小学一年」を除いて、いづれも具体的な年齢(五歳から十七歳まで)が書き込まれてゐるが、それはあへて云ふなら、ある時期から入沢康夫が意識的に行なつてきた過去の具体化(偽記憶の創出)の一環と云ふこともできる。「部屋さがしの想ひ出」で「はたちと十九のわたしたち」が描かれるほかはことごとくが十代、それもきつちり十七歳までといふのは、入沢康夫における「少年」、つまり十七歳といふ年齢の重要性をゆくりなくもあかしてゐるだらう。成人一歩手前の十七歳とは云ふまでもなく、ランボーの On n'est pas sérieux quand on a dix-sept ans を想起させる年齢ではあるが、それを頭の隅に置きつつ、入沢康夫自身の詩から引用してみる。出典の「註」は附けない。「私自身は、さる事情があって、出雲の国の松江市で生れ、半ば他処者、半ば土地っ子として十七歳までここで育った」「十七歳の私の夢の地図の上で、沼は鳥たちにも見放されたみすぼらしい水たまりに過ぎなかつた」「十七歳のぼくは 自分のぶざまな体積と体温とを (数マイル先きの野獣のそれのやうに)漠然と感じた」「ぼくは十七歳だつた」「雄山羊を連れた十七歳の混血娘」「十七歳の私と四十七歳の父」。「小品三品――十七歳の詩帳から」といふ作品もある。

「註 補遺」
蛇、少女、坂道、アセチレン、プラットホーム等、「偽記憶」に描かれる要素については、『アルボラーダ』『漂ふ舟』『唄――遠い冬の』『「月」そのほかの詩』を、「かはづ鳴く池の方へ」については「わが出雲・わが鎮魂」のみならず、『駱駝譜』『死者たちの群がる風景』を参照のこと。そこには自己模倣(セルフ・パスティッシュ)に陥らぬ、重層的な詩句の響きあひがあつて、作品読解の可能性はさらに拡がるはずである。
かりのそらね / 入沢 康夫
かりのそらね
  • 著者:入沢 康夫
  • 出版社:思潮社
  • 装丁:単行本(0ページ)
  • ISBN-10:4783730423
  • ISBN-13:978-4783730422
内容紹介:
「現代詩手帖」好評連載「偽記憶」と、同誌に一挙に掲載されて話題を呼んだ長篇詩「かはづ鳴く池の方へ」が、『わが出雲・わが鎮魂』への自らの回答として合わせ鏡のようにひとつに綴じられる。仮構された故郷への10篇の「思ひ出」、隠岐の島に重層化された後鳥羽院にまつわる「虚」―入沢康夫の屹立する現在。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

現代詩手帖

現代詩手帖 2008年5月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
高遠 弘美の書評/解説/選評
ページトップへ