解説

『ムテッポー文学館』(文藝春秋)

  • 2017/09/20
ムテッポー文学館 / 中野 翠
ムテッポー文学館
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(494ページ)
  • ISBN-10:4167552086
  • ISBN-13:978-4167552084
内容紹介:
『草枕』から『マディソン郡の橋』まで全方位無制限書評コラム集。

感性の連帯保証人

夜中に漫然と本を読んでいたりビデオを見ているとき、ごくたまにだが、ガバッと跳ね起きて居住まいを正すような傑作にぶち当たることがある。あるいは、どうでもいいような雑誌のコラムの中にキラリと光る無名の才能を見いだして興奮するようなこともある。

そんなときに、なにはさておいても、その興奮を共有してもらいたくなるような人、それが中野翠だ。この本、このビデオ、このコラムの本当のおもしろさがわかるのは中野翠しかいない、と、私は、そのたびに勝手に思い込む。もちろん、実際には、電話をかけたり手紙を書くというようなことはほとんどやったことがないし、会ったのも『大菩薩峠』の対談のときの一度きりだが、私の頭の中には、ここ十五年ほど(ということは、彼女が物書きとしてデビューして以来ずっと)、「発見の友人」「第一共感者」として中野翠が想定されている。こんなことを面と向かっていわれたら中野翠はむしろありがた迷惑と感じるかもしれないが、はっきりいって、今の日本で、その感性の中核の部分での連帯を留保なしに当てにできる「感性の連帯保証人」は、世代に関係なく、彼女ぐらいのものだと思っている。おそらく、私と同じように感じている物書きや編集者、それに当然、読者も多いのではなかろうか。

さて、いきなり自分に引き付けて書いてしまったが、じつはこれ、この本の(というか、中野翠のすべての本の)特質を語るための前振りなのである。なぜかというと、ほかでもない、中野翠自身の文章がどれもみな「発見の友人」「第一共感者」に向かって書かれたものだからである。中野翠の文章の爽快さはあげてここにある。

それは、感性の連帯のみを当てにして、見知らぬ読者にダイレクトに発見の喜びや反発を伝えようとする姿勢であって、ここをこう分析したら自分の頭のよさをひけらかすことができるとか、こんなことを書いたら同業者に馬鹿にされるのではないかなどと、書く前にへんに他者の喝采や批判を意識する物書きのイヤラシサとは無縁である。

だが、実際のところ、この姿勢を貫くことは、案外難しいものなのだ。というのも、友達に電話をかけて発見の興奮を伝えるのはたやすいが、それを文章でやるにはひとつの「覚悟」が必要だからである。

この「覚悟」について、中野翠は「私にとっての森茉莉2」の中で、珍しく連合赤軍事件のショックのあとの「森茉莉」体験を語っている。

「この人(森茉莉)はまったくもって、全然、まるっきり、イデオロギーの人ではない。自分の『好き嫌い』、ほとんどそれだけを頼みにして、ここまで書いているのだ。私はこの数年、『好き嫌い、つまり〈感性〉というものだけで何か書けるものかどうか、どれだけのものが書けるか』ということを考えて来たけれど、この人はここまで書いているのだ。『好き嫌い』だけで押し通しているのに、そこらの社会時評より数段面白く説得力がある。そこが凄い。(……)私もいつの日か、このくらい大らかにそして強力に『私』というものを、自分の『好き嫌い』というものを信じられるようになるのだろうか。それができないうちに私が何か書いても、たぶん面白くも何ともないだろう。説得力も迫力もないだろう。正しいかどうかなんて関係ない、『私はこう思う。何が何でもこう思う。世間一般、人間一般にとってはどうだか知らないが、これが私にとっての〈真実〉なのだ』-そこまで自分を追い込んで、見きわめをつけたところからでなかったら、書く意味はないだろう。(……)」

八〇年代の初めに、私もまったくこれと同じ覚悟をして、ようやくなにか書いてみようという気になったので、強い共感を感じる。

ただ、これだけを取り出すと、昨今流行の「エッセイスト」たちのフワフワしたミーイズムとどこが違うのだという声が出てくるかもしれないので、ここはひとつ、私なりに解説を加えておきたいと思う。というのも、中野翠のファンのかなりの層を形成する後続世代の読者にとっては、彼女のこの「覚悟」が、連合赤軍の集団リンチ事件のショックから直接生み出されたということが、すでに相当わかりにくくなっているからだ。

連合赤軍の集団リンチ事件、それはひとことでいえば、あるとてつもない善意の集団が、「善」の論理を突きつめていって、全員がいっせいに自分の「私はこう思う、そうは思わない」の部分を抹殺し、「私にとっての好き嫌い」をひたすら押し隠して、抽象的な「善」にのみ奉仕しようとすると、そこからどれほど想像を絶するような「悪」が出現して、一人歩きを始めるかを絵解きにしたような事件だ。「悪」の恐ろしさならだれにでもわかる。だが、「善」の恐ろしさというのは、これは、よほど想像力豊かな人でないかぎりわからない。だから、連合赤軍事件を経過したはずの団塊の世代でも、その恐ろしさに鈍感な人がかなりいる。ひとことでいえば、「善」の共同体に対する絶望が足りないのだ。

中野翠の「私はこう思う。何が何でもこう思う」の覚悟が強烈なものであり、そこから発する《感性》の連帯だけを求める「書き方」が根性のすわったものであるのは、この絶望が相当に深いものであったことをよく物語っている。最後の一文「全共闘おちこぼれが読んだ『諸君!』」にあらわれているように、中野翠が「私」に払った代価は一般に思われているよりもはるかに高価なものなのだ。

さて、「解説」と称しながら、本書の新しい面白さについて語るのをつい忘れてしまった。というのも、本書は、これまで時事ネタと新刊書評の分野で軽快でシャープなフットワークを見せてきた中野翠が、明治・大正・昭和の古典を読んで、その発見と興奮を読者に伝えた「ムテッポー文学館」が表題になっているからである。

いうまでもなく、対象が古典に変わろうが、中野翠の「好き嫌い」の切れ味のよさはいささかも変わらず、やっぱりね、中野翠ならこの作家に惚れるのは当然だよな、という「確認」ができたのは非常にうれしかった。

ただ、私にいわせると、中野さん、ちょっと遅かったんじゃないのという気もする。感性の部分は森茉莉と同じで「永遠のおてんば」なんだから、対象だけはもっとどんどん「ムテッポー」にしていいんじゃないかと思う。そのほうが発見の確率がはるかに高いからだ。

そして、そうなってくると、今度は、私の中の編集者意識が働いて、世にも強烈な「私」の文学であるフランス文学の、ラ・フォンテーヌ、ラ・ロシュフーコー、ヴォルテール、バルザック、フロベール、マルセル・エーメ、レイモン・クノーといった作家、あるいはイタリア文学ならイタロ・カルヴィーノ、イギリス文学ならイヴリン・ウォーといった偏愛作家を中野翠に読ませて、反応が知りたくなってくる。というのも、私がこれらの文学を読んでいたときには、まだ「感性の連帯保証人」たる中野翠はあらわれてはおらず、発見の興奮を分かち合うことができなかったからだ。

だれか、もうひとつの連帯保証人の欄に「私も」とハンを押してくれる編集者があらわれないものだろうか? 次は『ムテッポーふらんす文学館』で行きたいのだが。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

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ムテッポー文学館 / 中野 翠
ムテッポー文学館
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(494ページ)
  • ISBN-10:4167552086
  • ISBN-13:978-4167552084
内容紹介:
『草枕』から『マディソン郡の橋』まで全方位無制限書評コラム集。

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