書評
『恋しくて - TEN SELECTED LOVE STORIES』(中央公論新社)
甘くて苦いラブストーリー
村上春樹編訳のラブ・ストーリーが9篇(へん)と、本人の書き下ろし作が一篇、収められた短編集だ。集められたのはシンプルで心温まる作品ばかりでは当然ない。各篇の最後に、村上自身が「恋愛甘苦度」を★の数で表現しているのも粋な計らいで、ペーター・シュタムの「甘い夢を」や、大河ロマンのごときスリルとロマンを奇跡的に凝縮したローレン・グロフ「L・デバードとアリエット―愛の物語」などで、甘味を愉(たの)しんだ後は、渋いお茶のような作品もどうぞ。
黒髪の少女に恋した巨人の少年を描く「テレサ」、ひねりの効いた「モントリオールの恋人」、繊細で破壊的な軍事ラブロマンス(?)「恋と水素」や、暗さのリミッターが振りきれてしまいそうな「薄暗い運命」など。中でも卓抜なのは、先日ノーベル文学賞受賞が決まったカナダのアリス・マンローの「ジャック・ランダ・ホテル」である。若い恋人と駆け落ちしたパートナーのウィルを追って、もう若くない女ゲイルがカナダからオーストラリアへ飛ぶ。ふたりの住処(すみか)を見つけた彼女は大胆なアプローチを試みる。男の元に返送されてきた手紙を盗みとり、その宛先人になりすまして文通を始めるのだ。元パートナーの数ブロック先に変装して隠れ住みながら……と、ホーソーンの不条理短編「ウェイクフィールド」もかくやという奇妙な展開となっていく。
現在、過去、大過去、また現在以降と、複雑な物語の時間軸に加え、架空のパラレルワールドが挿入される。別人に化けた女と、見栄(みえ)で自分の人生を粉飾する男の世界。ところが、その偽りのやりとりの中で、おたがい自分も知らなかった自分を発見したり、その上、色々な「取り違え」が度重なったり。現実世界では、親しい人の死があり、不思議なカップルとの出逢(あ)いがあり、それがもう一つの世界と仄(ほの)かにリンクする。短編の巨匠の名に違わぬ傑作だ。
村上による最終編「恋するザムザ」はカフカの「変身」の続編のような体裁。朝起きたら人間になっていたザムザが恋をした相手は? 「変身」が本来持っているはずのオフビートな可笑(おか)しさを充分に引き出して、アンソロジーを見事に締め括(くく)っている。