解説

『二十世紀を読む』(中央公論新社)

  • 2017/10/01
二十世紀を読む / 丸谷 才一,山崎 正和
二十世紀を読む
  • 著者:丸谷 才一,山崎 正和
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(270ページ)
  • 発売日:1999-12-01
  • ISBN-10:412203552X
  • ISBN-13:978-4122035522
内容紹介:
20世紀!人類史上全く例外的な100年。昭和史と日蓮主義から『ライフ』の女性写真家マーガレット・バーク‐ホワイトまで、ハプスブルク家最後の皇女から匪賊までを論じ、この時代の諸相を剔出した現代文明論。最も息の合った大知識人二人が20世紀とは何であったのかを考えようと、絶妙の話芸を繰りひろげる歴史対談。

二十世紀の「知の考古学」

最近ではあまりはやらなくなったが、私は今でもミシェル・フーコーの「知の考古学」という概念が好きだ。思い返せば、「知の考古学」とは、文字で書かれた「文献」のみを調べ、整理し、記述する「歴史学」に代わって、文献には残らないが同時代のアルシーヴ(全文化の記録)のどこかに痕跡が残っている民衆的記憶を、考古学が遺跡にたいしてやるように丹念に掘り起こすことで、いままでは見えてこなかったエピステーメー(ある時代・あるグループに共通する認識的基盤)を浮き彫りにする作業だったはずである。

だが、一時の流行が過ぎ去れば、言葉と一緒に概念も用済みになるものと思っているジャーナリズムでは、この「知の考古学」もすでに蔵の隅に片付けられてしまったものと見なされているようだ。

ところが、実際にはそうではなかったのである。構造主義の担ぎ手たちがどこかに消えてしまったあと、構造主義ともフーコーとも無縁であるかに思われた日本の代表的な小説家と劇作家の共同作業によって、この「知の考古学」が日本で具体的に実践され、成功していたのだ。しかも、この言葉がはやる以前から、またその栄枯盛衰を気にすることなく、実質において同じことをやっていたのである。いうまでもなく、回数百回を越える丸谷才一・山崎正和の「対談」による知の類型のあぶり出しである。

今ではほとんど常識化してしまっているが、本当はこの二人の対談で初めて指摘され、表に引き出されたエピステーメーも少なくない。そして、われわれ読者が感じている以上に、二人によって摘出されたエピステーメーの射程距離は長く、その測鉛は深くまで届いているのである。

本書は、この丸谷・山崎の「知の考古学者」が、二十世紀という、もっともエピステーメーの判読しにくい時代に取り組んだ野心的「対談」であるから、これが面白くないはずがない。手垢のついた月並みなキーワードでしか切り取られてこなかった二十世紀が、これほど鮮烈な姿で構造をあらわに示したことはなかったといえる。

とはいえ、この「知の考古学」は、多少とも文学と歴史がわかる読者でありさえすれば、特に頭をひねる必要のないわかりやすい言葉、つまり難解でない言葉と語りによって実践されている。オタク・インテリは、その難解さの少なさが物足りないと感じるようだが、本当のことをいうと、インテリ用語、業界用語を用いずに、わかりやすい言葉で語ることほど、レトリックと熟練が必要なものはないのである。

どんなレトリックが使われているか例をあげて説明してみよう。

まずマーガレット・バーク=ホワイトの伝記を素材にして「カメラとアメリカ」を語りあった章で、山崎正和が、アメリカには「だれもが皆、何者かである」はずだという暗黙の了解があるが実際にはそうはいかないので欲求不満が再生産されるというアンドルー・ハッカーの説を引いて次のようにいう。

「そう考えると、カメラはそんな二ーズに見事に応えたわけです。十九世紀においては、天才や一部特権階級のものであった創造の歓び、ないしは創造の歓びの錯覚を、一気に大衆化したのが、まさにイーストマン・コダックだったと思うんです。そしてライカの小型版があとへ続いてくる。このことが、カメラあるいは写真術というものを、アメリカにおいて繁栄させた理由だと思います。やがて大衆社会をつくった国には、すべて写真が入ってくるんですね」

山崎正和がここで使っているレトリックは、抽象的なもの(大衆社会の欲求不満の解消)を具体的な例(カメラが与える創造の歓び)で置き換える「例証(イラストレイション)」の技法である。えっ、そんなものまでレトリックなの、と思うかもしれないが、じつは、これがレトリックの基礎の基礎で、わかりにくい文章というのは必ずこの例証の過程を抜かしているのである。

しかし、ここでの例証はもうひとつ高級なレトリックを狙っている。つまり、一つの例が他の例を以ては換置しえないほど強いものとして出されるとき、それはアレゴリー(寓意、象徴)に変わるのだ。カメラはこの章の初めから、アメリカ大衆社会のアレゴリーとして提示されている。今ふうの言葉でいえば、マクロコスモスと、それを凝縮したものとしてのミクロコスモスという二項概念となるかもしれない。いずれにしろ、山崎正和の得意とするのは、抽象的なものを暗喩(メタファー)に置き換えて具体的に語り、それと同時に具体的なものから抽象的なものを一息で抜き出す技術である。これは、現象学を基礎としながら、演劇というもっとも具体的な芸術に携わる山崎正和だからこそできる術といえる。

では、一方の丸谷才一の得意とするレトリックはなにか? さきほどの山崎正和の言葉に応えて、丸谷才一はこう語る。

「大衆芸術としてのカメラというのは、僕は俳句に似ていると思うんです。日本人はだれでも、みんな俳句ができますね。新聞に投稿する人も多い。それがこうじてくると結社に入る。そして、自分の詠んだ句が、雑誌に載ったり新聞に載ったりすると、満足するようになる」

丸谷才一のレトリックの中心は、違う領域の現象や事物の中に同じ構造を見抜く類推つまりアナロジーの技法である。カメラと俳句という思いもかけなかったものが二つ並べられ、しかもその二番目の項がわれわれに親しいものであるとき、われわれは、後者の構造によって前者のそれを理解することができる。それだけではない。丸谷才一はアナロジーという類似を使ったレトリックばかりか、その反対の「対立」を使ったコントラストも得意としている。

「そこで彼女と対立する写真家を一人挙げるとすると、フランスのアンリ・カルティエ=ブレッソンでしょう。カルティエーブレッソンは『決定的瞬間』という言葉で有名になった人ですが、あらゆる写真は決定的瞬間を撮るんだから、あの文句はどうでもいいんです」

すると、これを受けて山崎正和がこう問題を広げながら要約する。

「たしかに、二人を比較すると、何かがよくわかりますね。『決定的瞬間』という言葉を借りて使えば、カルティエ=ブレッソンは心理的に決定的瞬間を撮ったんですね。バーク=ホワイトは、もっぱら歴史的に決定的瞬間を撮ったわけです」

この二人の対話を改めてレトリック的に見ると、山崎正和は問題を垂直軸で、ギュッと縮めたり、反対にグイと引き伸ばすが、丸谷才一は水平軸でものを考える、というよりも軸を移動させて、新しい観点を引き出す。すると、それをまた山崎正和が垂直軸に移して凝縮と拡大を行う。

つまり、二人の対話は、座標軸で図形をえがくときのようなかたちで進行してゆき、最後には、アメリカという「ある特定の集団」や、二十世紀という「ある特定の時代」のエピステーメーがあらわれてくるという仕掛けになっているのだ。

もちろん、二人の役割が入れ替わることもあるし、相手の得意技を自分が使うこともある。しかし、基本的には、用いられる対話のレトリックと役割分担は変わらない。二人の絶妙な会話は、一見それとはわからないこうしたレトリックに負うところが多いのである。

だが、二人の対話にレトリックだけしかなかったら、こんなに面白くかつためになる対談にはならないだろう。やはり、取り上げられている題材も重要なのである。

では、その題材に共通する性質とはなんなのか? それは、二人の専門分野、というかホームグラウンドとは別の、離れ過ぎてはいないが近すぎもしない分野のトピックスが選ばれていることにある。

アメリカの写真週刊誌『ライフ』の女流カメラマン、バーク=ホワイト、ハプスブルク家の最後の姫君エリザベート、中国の『水滸伝』的匪賊の今日ヴァージョン毛沢東、日本陸軍と宮沢賢治と日蓮宗の重なり合い、フーリガンとイギリスの切っても切れない関係、それにルーマニア生まれの宗教学者でもあり小説家でもあるエリアーデと辺境知識人の運命、など、いずれも、これらのテーマは、ジョイスと王朝文学をホームグラウンドとする丸谷才一からも、現象学と演劇が専門領域の山崎正和からも、同じように遠い距離にある。

ただ、遠距離とはいうものの、それは、自分のホームグラウンドで培った知識とカンを使いうるほどには近い距離である。

このテキサス・リーガーズ・ヒットのようなテーマの設定位置がいいのである。

なぜなら、この「近すぎない」距離は、二人にある種の跳躍を強いる。つまり専門的でないことを語るからこそ、論理のジャンプができて、想像力を働かせることができるのである。

また、この「遠すぎない」距離は、ホームグラウンドでの論理の応用を可能にする。まったくかけ離れ過ぎた領域では、学習済みの論理は使えないものである。

このように、本書では、毎度おなじみの対話の方法を用いながら、その方法で切るのに最もふさわしく、しかも、その切り口から「二十世紀」という時代のエピステーメーがおのずと現れるような題材がたくみに選ばれているのだ。料理の名人は、名人であるがゆえに、勝負の大半は素材で決まることを知っているのである。各章を読み始めたとき、なぜこれが二十世紀のエピステーメーの摘出につながるのかと疑問に思った読者は、最後のページまでたどりついたとき、なるほど、これ以上に適切なテーマは選びようがなかったなという感慨を抱くに至るのである。

二十世紀の最後から二十一世紀の最初にかけて読むのに、まことにふさわしい「知の考古学」である。

【この解説が収録されている書籍】
解説屋稼業 / 鹿島 茂
解説屋稼業
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(238ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:479496496X
  • ISBN-13:978-4794964960
内容紹介:
著者はプロの解説屋である!?本を勇気づけ、読者を楽しませる鹿島流真剣勝負の妙技、ここにあり。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

二十世紀を読む / 丸谷 才一,山崎 正和
二十世紀を読む
  • 著者:丸谷 才一,山崎 正和
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(270ページ)
  • 発売日:1999-12-01
  • ISBN-10:412203552X
  • ISBN-13:978-4122035522
内容紹介:
20世紀!人類史上全く例外的な100年。昭和史と日蓮主義から『ライフ』の女性写真家マーガレット・バーク‐ホワイトまで、ハプスブルク家最後の皇女から匪賊までを論じ、この時代の諸相を剔出した現代文明論。最も息の合った大知識人二人が20世紀とは何であったのかを考えようと、絶妙の話芸を繰りひろげる歴史対談。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
鹿島 茂の書評/解説/選評
ページトップへ