解説

『楽しき熱帯』(集英社)

  • 2017/10/04
楽しき熱帯 / 奥本 大三郎
楽しき熱帯
  • 著者:奥本 大三郎
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2000-08-18
  • ISBN-10:4087472329
  • ISBN-13:978-4087472325
内容紹介:
第17回(1995年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞。ギリシア神話の神々の名を冠した蝶が飛び交い、獰猛な肉食魚ピラーニャが蠢くアマゾン。少年時の夢叶い、いざ緑の魔境へ! トラップで… もっと読む
第17回(1995年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞。ギリシア神話の神々の名を冠した蝶が飛び交い、獰猛な肉食魚ピラーニャが蠢くアマゾン。少年時の夢叶い、いざ緑の魔境へ! トラップで虫採り、釣りに感激、蝶の標本を買い込む楽しい旅は、インディオ虐殺、金採掘人(ガリンペイロ)・ゴム採集人(セリンゲイロ)の過酷な生、自然破壊との出会いでもあった。虫好き仏文学者ならではの、軽妙にして奥深い名紀行。

悲しき熱帯は「楽しき熱帯」となった

憧れ公式とか憧れ公理というものが存在していることをご存じだろうか? なに、ご存じない? 当然である。私がつくったのだから。まず、以下の数式をごろうじろ。

憧れ×モノ=1

おわかりだろうか? ようするに、憧れというのは、その人が手にしているモノがわずかであればあるほど大きくなり、反対にモノが多くなればなるほど小さくなるということである。たとえば、フランスに関するモノがわずかに、丸善を経由して入ってくるマルセル石鹸とかコティの香水くらいしかなかった明治や大正の時代、日本人はフランスに対してかぎりない憧れをいだいた。ところが、フランスのものであれば、どんな貴重品だろうと居ながらにして手に入れることができるようになった現代において、フランスに対する若者たちの憧れはほとんど完全に消えているといっていい。ヴィトンやシャネルでギンギンに身を固めた若い女性は別段、フランスに行きたいとも思わない。

ことほどさように、過剰なモノは憧れを殺す。憧れは適度なモノの欠乏によってしか生まれない。



外国はどこもはるかに遠いところで、日本に入ってくる外国のモノも少なかった昭和三十年代の初め、カリエスで股関節を冒され、寝たきりの退屈地獄を味わわされていた奥本少年は、「漫画少年」の中で椛島勝一の描く熱帯産の巨大なカブトムシに出会う。それはあくまで描かれたカブトムシにすぎず、モノともいえないモノだったが、そのモノの少なさ、希少さが奥本少年の憧れを異常なほどに膨らませることになる。やがて、父から贈られた中西悟堂の『昆虫界のふしぎ』という本によってこの巨大カブトムシがギリシア神話から名前をとった南米産のヘラクレスオオカブトムシであると知った少年は、南米への限りない憧れをいだくようになる。

「三つ子の魂百まで」と俗に言うけれど、現在の私のすべてはその頃出来あがったのであって、先にも述べた通り、朝から晩まで私は南米、アフリカ、東南アジアのような熱帯と、そこに棲む生き物に憧れ、その姿を想い描き、実際に紙の上に描いていた。紙が手元にないときも、空中に指でものの輪郭を描く。その癖は今も私に残っている。

モノ自体とモノに関する情報の少なさ、それにそのモノと自分を隔てる距離の圧倒的大きさ、これが奥本少年の想像力を刺激して、南米や熱帯の昆虫への強烈な憧れを生んだわけだが、ここで見逃してはならないのは、奥本少年がカリエスのためにベッドに縛りつけられ、退屈の日々を強いられたことである。ベッドの中の退屈地獄、それがいわば、憧れをより一層強いものにする圧力釜のような働きをしたのである。この退屈地獄が同時代の他の少年にはないような憧れ発生装置として機能する。特権的なマイナスが特権的なプラスを呼び寄せる。

今、「学校にも行けぬ」と書いたけれど、文字通りベッドに縛りつけられて、ものを考え、空想する時間がたっぷりあったことを、私は負け惜しみでなく、自分の幸福のひとつに数えている。(中略)いずれにせよ、人は子供の時代に退屈し、憧れ、ものを考える時間を持たねばならぬと私は思う。

じつは、この点が、世の多くの昆虫好きと著者を隔てている最大のちがいなのだ。著者は、たんに熱帯に憧れる昆虫好きなのではなく、「ものを考え」、本を読む昆虫好きなのである。本を読み、憧れ、ものを考え、そしてまた本を読んだすえに再び憧れる。熱帯の昆虫と憧れと活字の弁証法。



しかし、本書の特徴となっているのは、この三つの要素にもう一つの次元、つまり実際にアマゾンの現地に赴いての体験という第四の要素が加わって四つ巴となった弁証法の不思議な魅力である。すなわち、著者は、ある雑誌の企画で、長年憧れ続けていたアマゾンのジャングルに分け入って、そこで本物の昆虫とあいまみえるチャンスに恵まれるが、その現実体験が、憧れや本で得たイメージを裏切りも超えもしない、あまりにもそのものズバリの体験であるがゆえに逆に非現実的な印象を与えることになる。

「センセイ、ほら来たよ!」

とヤマダさんの声。銀紙が銀紙に惹き寄せられた、というべきか、まさにメタリック・ブルーの大きなモルフォ・メネラウスが、森の奥から真っ直ぐに、銀紙めがけて飛んできたのである。本に書いてあることが本当なのだなあ、オレもそのまま書いたけど、とあらためて感動する。

この蝶を初めて、博物館の暗い展示室で見たときの、あの衝撃を想い出す。あれから標本はもちろん多量に入手したけれど、生きて飛ぶところは初めて見る。

モルフォ・メネラウスは、キラキラ輝やく翅表と、焦茶の裏面を交互に見せてジャノメチョウのようにひょいひょいと地表近くを飛んで来た。数学で言うサインカーヴを描くような飛び方である。暗い中で輝やく青い光がストロボを焚くように見える。それが私の手の銀紙のまわりをまとわりつくように飛んで離れないのである。その光景は、実際に見たから確かにそのとおりのことがあったのだけれど、今になると信じ難いようである。

この一節のブッキッシュなソースとなっているのは、昆虫商人ル・ムールトの自伝であるが、以後、アマゾンでの生活が長くなるにつれ、ブッキッシュなレフェランスはベイツ『アマゾン河の博物学者』やホメロス『イリアス』に変わり、四つ巴の弁証法もそのときどきによって変化する。

古代ギリシアと南米とではもちろん世界が違うけれど、この太陽と赤土剥き出しの広大な土地にいてこれを読むと、何だかとても感じが出る。感情の激しさ、砂に染み込む血の連想が身近に感じられるのである。

ギリシア神話にちなんだ名前を持つ蝶たちは、さながら、「蝶の合戦」を戦っているように感じられ、そこからギリシア神話と蝶が二重写しになった美しくも残酷な夢想が始まったりするのである。

(次ページに続く)
楽しき熱帯 / 奥本 大三郎
楽しき熱帯
  • 著者:奥本 大三郎
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(263ページ)
  • 発売日:2000-08-18
  • ISBN-10:4087472329
  • ISBN-13:978-4087472325
内容紹介:
第17回(1995年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞。ギリシア神話の神々の名を冠した蝶が飛び交い、獰猛な肉食魚ピラーニャが蠢くアマゾン。少年時の夢叶い、いざ緑の魔境へ! トラップで… もっと読む
第17回(1995年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞。ギリシア神話の神々の名を冠した蝶が飛び交い、獰猛な肉食魚ピラーニャが蠢くアマゾン。少年時の夢叶い、いざ緑の魔境へ! トラップで虫採り、釣りに感激、蝶の標本を買い込む楽しい旅は、インディオ虐殺、金採掘人(ガリンペイロ)・ゴム採集人(セリンゲイロ)の過酷な生、自然破壊との出会いでもあった。虫好き仏文学者ならではの、軽妙にして奥深い名紀行。

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