解説
『楽しき熱帯』(集英社)
しかしながら、こうした熱帯への憧れとブッキッシュな知識と現実のアマゾン体験の何重にも重なった記述がすべて既視感(デジャ・ヴュ)の生む眩暈なのかといえば、むしろ事実は逆である。アマゾンにおける現実体験は、それまでのブッキッシュな体験を根底から揺るがして、著者はまったく新たな認識に迫られることになる。その第一は、高温多湿の風土ゆえにすべてのものがすぐに分解され、再生されるという生物循環の連鎖の異常なスピードだ。こればかりは、はるかに想像を越えていたようだ。
これに対して、地球の北では、冬にはあらゆるものが枯れるから、夏の間に得たものを貯えなければならない。そしていったん貯えることが始まると、その欲望は無限循環のサイクルに入る。
だが、著者はその原罪を背負った「北の国」からやってきた一人である。そして、そのことを痛いほど自覚している。そこでブッキッシュな記憶の中から召喚されるのが、同じような痛みを背負いながら、愛の力を以て「悲しき熱帯」を見つめ続けたフランスのユダヤ人、レヴィ=ストロースである。
著者は、では、なぜ、レヴィ=ストロースと同じように熱帯への愛を語ってやまないのか? それは、南の国の人々が北の国の人々に征服される原因となった圧倒的な生命循環こそが昆虫や動植物を生むからである。昆虫や動物への愛。幼いときに退屈と憧れによって、その愛の萌芽を植え付けられた人は、いわば媚薬を飲んでしまったトリスタンとイズーのように、たとえ、自分が原罪を背負っていても、説明不可能な宿命に従うほかないのである。
だが、悲恋に終わるほかないトリスタンとイズーの恋とちがって、少年雑誌の熱帯の昆虫の挿絵から始まった憧れと熱烈な恋は、見事、得恋となって終わる。悲しき熱帯は「楽しき熱帯」となったのである。
こんな幸福感に満ちた本はめったにない。
【新版】
【この解説が収録されている書籍】
熱帯には、じっとものを貯える、あるいは死蔵するということがなく、栄養は生き物の体の中を絶えず廻っているのである。熱帯の生命の華々しさ、動植物の華麗さは、絶えず消費され、散財される生命の祝祭、生命の花火のような状態から来るものなのである。
土壌も、そこに生える植物も、そして人間も、外部に物を貯えることができない。保持することができるのは、ただ自分の体の中にあるものだけなのだ。
これに対して、地球の北では、冬にはあらゆるものが枯れるから、夏の間に得たものを貯えなければならない。そしていったん貯えることが始まると、その欲望は無限循環のサイクルに入る。
南の国では貯えるということが発達せず、北の国でそれが発達したとするなら、南北問題の構造がはっきりする。イソップの寓話で言えば熱帯の人間は蝉(あるいはキリギリス)、温帯、亜寒帯の人間は蟻なのである。蟻が蝉の国を侵略したのである。
富を獲得するためなら、人間はどんなことでも正義にしてしまうというのだが、その動機の大本となること、つまり、物を貯えることこそは、生物としての人間の犯した数々のルール違反の中でも最大のものであり、まさに原罪なのである。
だが、著者はその原罪を背負った「北の国」からやってきた一人である。そして、そのことを痛いほど自覚している。そこでブッキッシュな記憶の中から召喚されるのが、同じような痛みを背負いながら、愛の力を以て「悲しき熱帯」を見つめ続けたフランスのユダヤ人、レヴィ=ストロースである。
しかし何よりも『悲しき熱帯』一巻を通じて人を圧倒するのは、レヴィ=ストロースの愛の力とも言うべきものであろう。学問としての構造人類学の確立も、もちろん彼の偉大な業績であろうけれど、もしこの愛が無ければ、彼と同じユダヤ人のパウロが言うように、それも「やかましい鐘や騒がしい鐃鈸と同じ」であろう。学問はやがて根底からくつがえるけれど、愛は変わらないからである。
著者は、では、なぜ、レヴィ=ストロースと同じように熱帯への愛を語ってやまないのか? それは、南の国の人々が北の国の人々に征服される原因となった圧倒的な生命循環こそが昆虫や動植物を生むからである。昆虫や動物への愛。幼いときに退屈と憧れによって、その愛の萌芽を植え付けられた人は、いわば媚薬を飲んでしまったトリスタンとイズーのように、たとえ、自分が原罪を背負っていても、説明不可能な宿命に従うほかないのである。
ああ、そうなのだ、自然が好きになるというのは、ごく小さい時に、そういう効能を有する愛の妙薬、élixir d'amour を飲むようなものなのだ、と。
だが、悲恋に終わるほかないトリスタンとイズーの恋とちがって、少年雑誌の熱帯の昆虫の挿絵から始まった憧れと熱烈な恋は、見事、得恋となって終わる。悲しき熱帯は「楽しき熱帯」となったのである。
こんな幸福感に満ちた本はめったにない。
【新版】
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