解説
『江戸っ子だってねえ―浪曲師広沢虎造一代』(新潮社)
馬鹿は死ななきゃなおらない
浪花節(なにわぶし)が好きだ、と言うと、たいていの人は、あ、そうなんですか、と意外そうな顔をするがその顔はただ単純に、「あーたが浪花節を聴くとは知りませんでした」と言っている顔ではなく、いま少し複雑な、「ほっほーん。浪花節ねぇ。つまりそれはこういうこと? つまり浪曲なんていうはるか以前に廃(すた)った芸を愛好するというその変奇な行為をあえてことさらする俺って渋いなあ。なんて思っているわけだ。なるほど。もってまわったしゃらくさい似非(えせ)マニアなこと。そんな奴はうざいから棒やバットで殴りたいけれどもそんなことをしたらこっちが悪いことになるからまあよそう。それに右(事務局注:上)のようなニュアンスを口頭で伝えるのは困難だから黙っていよう。でも腹に言いたいことがあって黙っているのだから酢を飲んだひょっとこみたような妙な顔になるのは仕方ない。そおらそおら妙な顔妙な顔」と、内心で思っているようなそんな顔をするのである。しかし、「違う、俺はそういうあえて変奇なものを愛好するという屈折した心情からではなく、本当に心の底から、ボブ・マーレーやルー・リードの音楽が好きなのと同様に浪花節が好きなだけだ」と主張できないのはそれは相手が、実際に言ったのではなく、そんな顔をしただけだからである。
しょうがないので、「まあ、たまに聴く程度なんだけどね」かなんか気弱に言うと、それきり会話が途切れ、なんだか間が空いて気まずくなり、「じゃ、そろそろ行きますか?」「そうですね。じゃあ、またあの連絡しますんで」「そうですね。今日はほんとうにありがとうございました」「いえいえこちらこそ。まあ、あの浪花節のことは、あのまた今度……」「は?」「いえいえいえいえいえいえ。じゃそういうことで失礼します」「じゃどうも」ってことになってしまうのであり、まことにもって困ったことである。
なんでこんなことになるのかというと、もちろん最初に、浪花節が好きだ、と言ったからで、これがオペラが好きだとかヒップホップが好きだといった場合はこういう展開にはならない。
なぜかというと、通常人は、一時、爆発的に流行してその時代の流れとともに廃った芸、というものになんらの感慨をもつこともなくただ忘却してしまうだけなのであるが、こと浪花節に関しては、「旅行けば駿河(するが)の道に茶の香り」という節を知らぬ者はなく、そういう芸があるということをいつまでも忘れないし、それだけならよいのだけれども、浪花節という文言に必要以上に否定的な感情を持っているからである。
なんでそうなったかというと、まず浪花節の隆盛を知るひとが、「浪花節というのは義理と人情の世界であり、義理と人情というのは論理的でない非科学的な世界であって、そんな情緒的な土俗的な世界観に浸っているから戦争に負けた、或いは、誤った戦争を始めたのであって、我々日本人はそんな古臭い義理人情にしばられた土俗的呪術的世界を脱して科学的にいかなあかんのんじゃ、ぼけ」と主張、その次の世代の浪花節の勢いが減じる頃に成長した人が、「あ、なるほど。だからかく衰亡しているのだな。あ、なるほど。義理人情は古臭く、浪花節は義理人情で、だから浪花節は古臭い」と認識、その次の世代にいたって、浪花節イーコール古臭い否定されるべきもの、因習にとらわれた無知蒙昧(もうまい)の土民・頑民の徒(いらずら)な感傷と単純化され、他を批判する際に、「そら君、浪花節だ」などと言われるようになったのである。
と書いて、「なにを吐(ぬ)かすか、小せがれが。貴様に人生のなにが分かる。木っ端。埋めるぞ、こら」と言いたくなったのは、国民が浪花節を聴いたから戦争に負けた。或いは、国民が浪花節を聴いていたから国家が戦略・戦術を誤ったという、その認識の出発点が誤り、または嘘であるからで、そんなことを言う人はいっぺん廣澤虎造(ひろさわとらぞう)節を聴いてみたらどうだろう、と思う。
(次ページに続く)
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