書評

『陶晶孫その数奇な生涯―もう一つの中国人留学精神史』(岩波書店)

  • 2017/07/01
陶晶孫その数奇な生涯―もう一つの中国人留学精神史 / 厳 安生
陶晶孫その数奇な生涯―もう一つの中国人留学精神史
  • 著者:厳 安生
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(405ページ)
  • 発売日:2009-03-25
  • ISBN-10:4000241443
  • ISBN-13:978-4000241441
内容紹介:
清朝末期の日本留学第一世代の、反清革命に燃える激動の青春群像を論じた前著『日本留学精神史-中国近代知識人の軌跡』の続編。中華民国建国後に日本で学んだ郭沫若らエリート留学生の悩める青… もっと読む
清朝末期の日本留学第一世代の、反清革命に燃える激動の青春群像を論じた前著『日本留学精神史-中国近代知識人の軌跡』の続編。中華民国建国後に日本で学んだ郭沫若らエリート留学生の悩める青春群像を、陶晶孫という忘れ去られかけていた人物を軸に浮かびあがらせ、現代中国の形成および日中交流史に大きな足跡を残した留学第二世代の姿を描く。二〇世紀前半の中国文化界における「大正教養主義」ないし西欧的ヒューマニズムの正負の影響-後に文化大革命という極端な形の反動を生み出すことにもつながった-を論じ、激動の時代の精神史を捉えた力作論考。日中双方の資料を読みこんだ上での意欲的考察である。
大正時代には多くの中国人が日本に留学した。のちに各分野で大活躍した人も少なくない。日本の文学結社を真似た「創造社」の同人たちはその一例、彼らは近代文学の発展に大きく寄与し、のちに政治活動や社会活動に身を投じた者もいた。陶晶孫もその内の一人。ただ、ほかの留学組に比べて、彼の経歴はかなり異色なものだ。

おおかたの留学生と違って、陶晶孫は小学校四年のときに来日した。神田の錦華小学校、東京府立第一中学校などを経て、九州帝大医学部を卒業。三十二歳のときに帰国し、医科大学教授のかたわら、文芸誌の編集や脚本の創作をしていた。戦後、台湾大学医学部教授を務めたが、左翼文芸運動との関連が追及されるのを恐れて日本に脱出。二年後に肝硬変で日本に客死した。

本人の意思ではなく、父親の都合で幼少時から日本の教育を受けることになったのだから、厳密にいえば、ほんとうの留学生ではない。ただ、旧制第一高等学校の時代から清国の官費をもらっており、同世代の留学生たちとも親密な行き来がある。そうしたことから、自他とも中国人留学生と認識していた。一方、その特殊な経歴のために、根無し草のような感覚は終生消えることはない。その悲劇的な運命をもたらす原因の一端もそこにあるのかもしれない。

陶晶孫は生前、話題を呼んだ作品を発表したこともないし、派手な社会活動をしたこともない。だが、彼を通して、近代日中文化交渉史の知られざる部分に光を当てることができる。

人物伝を思わせるような書名だが、中味はふつうの伝記とはひと味もふた味も違う。事実、ひとり陶晶孫のみならず、郭沫若や郁達夫など大正時代のほかの中国人留学生たちの精神遍歴をも射程に入れている。この方法によって、陶晶孫という人物の叙述に奥行きをもたらし、また、同時代の精神史の一面を浮かび上がらせることができた。

大正時代といえば、いまでは遠い昔の話という印象がある。どのような作家がいて、どんな作品があったかについては、若い世代はほとんど興味がない。何しろ田山花袋『布団』を読ませると、大学生たちが吹き出す時代である。中国でも状況は大して変わらない。一九八〇年代以降、中国には優れた小説が多く現れた。それに比べて、一九二〇年代初頭に書かれた作品には現代批評に堪えられるものが少ない。一部の例外を除いて、多くの小説は習作の水準に止まっていた。その辺りの作品を批評するには、並々ならぬ情熱と忍耐力と、巧みな戦術が必要だ。

著者はそうした作品群を面白おかしく評することに長けている。講談を思わせるような語り口も興味をそそるが、作品が誕生する背景についての探究には独特の視点と方法が用いられている。

その一つは日本文学との関連を解明することである。比較文学研究の例に漏れず、作家間、あるいは作品間の影響関係は、文学を解き明かす基礎的な作業である。陶晶孫をはじめ、同じ文学結社の作家たちの作品を分析し、その題材源や情緒表現の由来を探る。大正文学の受容が近代中国文学の方向をどのように変えたか、詳細なテクスト分析が行われた。

とくに興味深いのは大正教養主義の伝播(でんぱ)についてである。多感な青春時代を日本で過ごした中国人作家たちはどのように大正教養主義の薫陶を受け、彼らの思想形成にどのような影響を与えたか、さらに、のちに彼らが創作した作品にどのように投影され、近代中国の精神史において、どのような意味があったかが、緻密に検討されている。

意外なことに、大正教養主義は当時、中国人留学生たちの文学的趣味の形成に大きく関与した。彼らの小説や詩、あるいは文芸批評が広く読まれていたから、大正教養主義はたんに中国人留学生たちの情操を陶冶(とうや)したのに止まらず、近代中国の精神史にも目に見えない作用を及ぼした。いままで誰も気付かなかった、貴重な発見である。

通常、作家の伝記的な事実は作品を解明するための手がかりとされている。だが、この本では逆の手法も取られている、小説から伝記的な事実を洗い出し、それにもとついて作家の創作時の出来事や心境を読み出そうとする。さらに、作家が身を処していた時代の雰囲気を推定し、異国で生活していた彼らの心の軌跡を写し出した。

過去の出来事は物語ふうに再現されている。登場人物は生き生きとしていて、会話は速記を起こしたように臨場感に溢れている。上海事変あたりの描写は真に迫り、まるで映画の場面のようだ。

項末に見える歴史的細部も、作家たちの個人的な体験も、いまとなっては知ることが難しい。それを明らかにするには、丁寧に資料を読みこなし、地道に実地調査を行うことが必要である。目立たない用語の解釈や、何気ない引用には想像もできないほど心血を注いだのであろう。陶晶孫の文章に「東洋の波蘭(ポーランド)人」という言葉が出てくる。読み過ごされやすい箇所だが、その言葉の歴史的な含意について、説得力のある証拠と、鋭い読みが示されている。そこにたどり着くまでには多大な労力が費やされたのはまちがいない。そのことを考えると、刊行に漕ぎ着くまで十八年かかったのも頷ける。本書のおかげで、陶晶孫の不運な一生だけでなく、近代における日中文化の交差、衝突と融合の一局面をも知ることができた。

【この書評が収録されている書籍】
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010 / 張 競
本に寄り添う Cho Kyo's Book Reviews 1998-2010
  • 著者:張 競
  • 出版社:ピラールプレス
  • 装丁:単行本(408ページ)
  • 発売日:2011-05-28
  • ISBN-10:4861940249
  • ISBN-13:978-4861940248
内容紹介:
読み巧者の中国人比較文学者が、13年の間に書いた書評を集大成。中国関係の本はもとより、さまざまな分野の本を紹介・批評した、世界をもっと広げるための"知"の読書案内。

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陶晶孫その数奇な生涯―もう一つの中国人留学精神史 / 厳 安生
陶晶孫その数奇な生涯―もう一つの中国人留学精神史
  • 著者:厳 安生
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(405ページ)
  • 発売日:2009-03-25
  • ISBN-10:4000241443
  • ISBN-13:978-4000241441
内容紹介:
清朝末期の日本留学第一世代の、反清革命に燃える激動の青春群像を論じた前著『日本留学精神史-中国近代知識人の軌跡』の続編。中華民国建国後に日本で学んだ郭沫若らエリート留学生の悩める青… もっと読む
清朝末期の日本留学第一世代の、反清革命に燃える激動の青春群像を論じた前著『日本留学精神史-中国近代知識人の軌跡』の続編。中華民国建国後に日本で学んだ郭沫若らエリート留学生の悩める青春群像を、陶晶孫という忘れ去られかけていた人物を軸に浮かびあがらせ、現代中国の形成および日中交流史に大きな足跡を残した留学第二世代の姿を描く。二〇世紀前半の中国文化界における「大正教養主義」ないし西欧的ヒューマニズムの正負の影響-後に文化大革命という極端な形の反動を生み出すことにもつながった-を論じ、激動の時代の精神史を捉えた力作論考。日中双方の資料を読みこんだ上での意欲的考察である。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2009年4月26日

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