書評

『日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡』(岩波書店)

  • 2021/09/25
日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡 / 厳 安生
日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡
  • 著者:厳 安生
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(380ページ)
  • 発売日:1991-12-05
  • ISBN-10:400001689X
  • ISBN-13:978-4000016896
内容紹介:
日清戦争から辛亥革命にいたるまでの間、清朝末期の中国から明治の日本に大勢の男女学生が渡来した。東アジアの歴史変動のなかにあって彼らはいったいいかなる精神のドラマを体験したか。数多くの例に即して、その意味を内在的に明らかにする。十年来の歳月をかけてこのテーマに取り組んできた、中国人である著者にして初めて描きだしえたユニークな近代日中交流精神史。

日本の文明に目ざめた近代中国人が歩んだ軌跡

虚を衝かれる思いがした。

明治このかたの日本が先をゆく欧米に追いつこうと息せききって駆け続け、近代の文化史も精神史も、漱石や鷗外に代表されるようにその駆け方の歴史にほかならないことはよく知られている。しかし、欧米という光源を目ざして走る日本の後にはまたその背中を目ざして走るアジアがあり、そこにも漱石や鷗外が味わったと同じような精神のドラマが実はあった、という事実をこの本『日本留学精神史』(岩波書店)で初めて知った。

まず具体的な数字に驚かされる。明治になってから日本に留学した中国の青壮年の数は、清朝末の十年だけで一、二万人、戦前いっぱいだとおよそ十万人を数え、柔道の講道館の創始者の嘉納治五郎が中国人留学生のために設けた弘文学院に学んだ者だけでも七千人に上り、魯迅も例の仙台医専に行く前はここに在籍しているから、エイヤッをやっていた可能性もあるという。

幕末、明治初期に欧米と日本の間で起こったようなことが、日本と中国の関係の中でも起こる。たとえば、中国近代史上の代表的思想家として知られる梁啓超(りょうけいちょう)は明治中期に日本に来て新しい考え方に接し、「脳の芯まで一変させられ、思想、言論、前と別人のごとくになった」。そして、そうした明治を築く礎となった吉田松陰にあこがれ、中国のための松下村塾を開こうと考え、明治三十二年九月、当時の牛込区東五軒町に高等大同学校を創設する。この小さな私塾には、清朝政府ににらまれて中国を脱出した蔡鍔(さいがく)、唐才質(とうさいしつ)、林圭(りんけい)らが集まり、「師の梁はみずから吉田晋(松陰=吉田晋作)と名乗り、教え子は教え子で、『発言すれば必ず独立、自由、平等、博愛をうんぬんし、名乗りをすれば必ず西哲の群雄にみずからを擬する』という雰囲気に満ちていた。じっさいに、翌一九〇〇年の夏に唐才常の指導する『自立軍』蜂起がおこった時、蔡以下ほとんど参戦に駆けつけ、唐才質、林圭ら数名の死者まで出していた」。

日本で新しい文明に目ざめた留学生が中国近代化に果たした精神的役割は、現在日本のわれわれが思うよりずっと大きかったようだ。たとえば、今の中国で革命烈士として讃えられ、銅像も建ち映画も作られている鄒容(すうよう)は、日本で言論と思想と出版の自由を知り、中江兆民らの訳でルソーの『民約論』やモンテスキューの『法の精神』に触発され、帰国後ただちに『革命軍』を著す。

『中国の人権宣言』と呼ばれたこの一著は、清末の中国においては天文学的な数字に近い百十万冊刷られ、辛亥革命の全準備過程を通じ、最初で最大のベストセラー宣伝書となった。


そして、それを読んだ青年魯迅は「七、八行読むと頭がぐらぐらし、ほとんど読み続けられなかった。……これこそ中華革命の第一声で、疾雷耳を蓋(おお)うにおよばずといった調子だった」。

この一冊によって清朝の打倒と「中華共和国」の建設を訴えた鄒容は、清朝政府に捕らえられて獄死し、まさに中国の吉田松陰となった。

しかし、事態は単純ではない。

留学生たちは、中国こそが世界の文明の中心であるという深く深く井戸の底よりも深く中国人の心に浸みわたる中華意識と目の前の進んだ日本への劣等感の間でもみくちゃになり、その心の外傷を日本の側が気軽に刺激する。

たとえば、明治三十六年の第五回内国勧業博覧会の時、会場の脇に民間人が人類館となるパビリオンを建て、中国の纏足(てんそく)やアヘンの習慣を展示した。珍しい動物でも見せるような企画の対象に自国がされた留学生はいきり立ち、人類館事件が起きるが、こうした傷は、大正、昭和と時代が進むにつれ、ひどくなっていく。

よかれあしかれ漱石はじめ明治の日本の留学生がヨーロッパで味わったものを、もっと激しく中国の留学生は日本で味わい、その数が十万人というのである。

ここに描かれているのは、本の副題にいうように「近代中国知識人の軌跡」だが、それは日本人の側からいうと自分の後ろ姿にほかならない。

めったに見られない後ろ姿を見せてくれた著者の厳安生氏は北京で活躍中の日本研究者で、この本を読むと、かの国の日本研究の先端がどこまできているかが分かる。内容は欧米人の日本研究に迫りつつあり、文章力は欧米人をはるかに抜き、司馬遼太郎などの影響を受けた日本文に近い爽快さがある。

(1992年2月7日号)

【この書評が収録されている書籍】
建築探偵、本を伐る / 藤森 照信
建築探偵、本を伐る
  • 著者:藤森 照信
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(313ページ)
  • 発売日:2001-02-10
  • ISBN-10:4794964765
  • ISBN-13:978-4794964762
内容紹介:
本の山に分け入る。自然科学の眼は、ドウス昌代、かわぐちかいじ、杉浦康平、末井昭、秋野不矩…をどう見つめるのだろうか。東大教授にして路上観察家が描く読書をめぐる冒険譚。

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日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡 / 厳 安生
日本留学精神史―近代中国知識人の軌跡
  • 著者:厳 安生
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:単行本(380ページ)
  • 発売日:1991-12-05
  • ISBN-10:400001689X
  • ISBN-13:978-4000016896
内容紹介:
日清戦争から辛亥革命にいたるまでの間、清朝末期の中国から明治の日本に大勢の男女学生が渡来した。東アジアの歴史変動のなかにあって彼らはいったいいかなる精神のドラマを体験したか。数多くの例に即して、その意味を内在的に明らかにする。十年来の歳月をかけてこのテーマに取り組んできた、中国人である著者にして初めて描きだしえたユニークな近代日中交流精神史。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1992年2月7日

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