吉川英治文学賞(第39回)
受賞作=北原亞以子「夜の明けるまで」/他の選考委員=五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=吉川英治国民文化振興会/発表=「現代」二〇〇五年五月号北原小説の醍醐味
若くして江戸留守居役に養子にと望まれた逸材がいた。留守居役は、ほかの藩の同役たちと組合をつくって情報を交換し合い、幕藩体制下の政治的局面での重要な役割を担うという、いわば当時の外交官のような存在、各藩ともすぐれた人材をこの職に充てていた。だからこの若者がいかに将来を期待されていたかがわかるが、ある夜、彼は親友に誘われて下町へ飲みに出かけた。一方、江戸深川に遊女の着物の繕いをしながら細々と暮らしの煙を立てている嫌われ者の老女がいた。日頃から、「生きていてもしょうがない。死にたい、死にたい」と愚痴っているような女である。
北原亞以子さんの作家的剛腕が、この前途有為の若者と前途真っ暗な老女を、火事で結びつける。それが第四話の「いのち」。生きるだけ生きて世の中の役に立とうと志した若者が、生きていてもしようがないとおもいながらやっと息をしている老女を炎の下から助け出し、そして死んでしまうのである。
この世の不条理(ばかばかしさ)がこの下町の小事件に一気に結晶する。とりわけ若者を飲みに誘った親友の苦しみは筆に尽くせないものがあるが、ここでこのシリーズの狂言回しの役をつとめている木戸番夫婦が、この『罪と罰』にも匹敵するような大難題を、深川風に、というより北原流儀でみごとに解決、というより軽やかに昇華してしまう。淡々とした筆の捌きの下に見え隠れする巨きな主題……北原小説の醍醐味はここにある。
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