書評

『現代文訳 正法眼蔵』(河出書房新社)

  • 2018/01/23
現代文訳 正法眼蔵 1  / 道元
現代文訳 正法眼蔵 1
  • 著者:道元
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(385ページ)
  • 発売日:2004-07-02
  • ISBN-10:4309407196
  • ISBN-13:978-4309407197

石井恭二氏の全訳に寄せて

まず、白状しておくと、寺田透氏の「現代訳」だけが私の道元である。去年、他界する数力月前、寺田氏は『道元和尚広録』二巻を上梓した。おそろしく歯切れのいい道元がそこにいた。

仏とは心のことだと。気違い沙汰だ。ずばり心を指して、仏にするって。天の向うとこっち程離れたものをか。盃三杯で海の水を汲みつくそうとするようなものだ。

すべて、この調子である。元は漢文、それを訓読した上で、現代語訳ならぬ現代訳を、自在、闊達(かったつ)にくりひろげる。それはもう、壮観としかいいようのないものだった。

生れるも死ぬもそれがどこから来るという出どころはない。霊雲志勤は桃の花を見て大悟したが、その桃は首年も昔の桃の種から育ったものだ。瑞雲たなびくがごときめでたい話だが、おかしなことだ。どうしてそのときのその花で悟ったのか。

道元がすらすら読める。私にはそれが驚きだったが、寺田氏の道元研究の、気が遠くなるような長い道程を知る人は、果実が熟すべくして熟しただけ、と考えるのだろう。

いずれにせよ私は、以来、寺田透現代訳の『道元和尚広録』を、座右の書といっては誇張になるが、少なくとも、ふっとその気になればいつでも読める場所に置いてきた。

『正法眼蔵』はどうか。これは、完全にお手上げだった。昔、ちょっと覗いてみただけで、すぐ断念した。私に歯の立つ世界ではないと直感したからである。もともとが哲学書になじめない人間だし、宗教心も、たぶん、現代日本人の平均を下まわるほうだと思う。

『正法眼蔵』を刻苦して読むより、ボードレール全集に首を突っこんでいたほうが、私の場合、魂の救済に役立つ。道元は、寺田氏の現代訳だけで充分、という事態がつづいてきた。

そこへ、今度の『正法眼蔵』全巻現代訳の出現である。情報としてはかなり前から耳に入っていたが、いま、こうして、完結した全四巻を机上に積み上けてみると、この世では、誰がどこでどんな大業に挑んでいるか、わかったものではない、という感慨にとらわれる。注釈、現代訳を刊行した石井恭二氏は、出版社主として知られてきた人だ。ある段階から、日本古典の注釈に精力を傾けはじめたことは知っていた。しかし、『正法眼蔵』の全巻現代訳というのは想像を絶した。

とはいえ、仕事は仕事である。驚いてばかりはいられない。お手並み拝見だ。

第二十「有時(うじ)」から。

そうであるから、松も時である。竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解してはいけない、飛び去ることが時の活らきとだけ考えてはいけない。時というものがもしも飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない隙間が出来るはずだ。有時という真理に耳を傾けないのは、時とは過ぎるものとだけ考えるからである。要をとっていえば、全世界にあるところの全存在は、連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存は時である。吾有時(ごいうじ)である。

なるほどこれなら、私にも、わかるとはいわず、理解の手掛かりだけはしっかりとつかむことができる。石井氏はこの「吾有時」のところに注をつけて、ハイデッガーの『存在と時間』の一節を引き、道元と現代思想との直結を試みている。切実な現代的関心から道元を読もうとしている私たちとしては、大助かりだ。

石井氏の現代訳を右に置き、参考書として、たとえば倉橋羊村氏の『道元』を左に置く。私たちが、A点から移動してきて、いまB点にいるとする。A点にいた「時」は過去のイメージ時間だが、実際に私たちが体験した時間である以上、「いま」の時間として任意に取り出し、回想することができる。これが、倉橋氏の解読だ。

眼前の松と竹とは、それぞれ姿が異なるが、どちらも『いま』の相としてとらえることができる。切実に時間にかかわっている。

松と竹を『有時』の風景として眺めると、それぞれの成り立ちの違いが見えてくる。松の歳月、竹の風情ともいうべきそれぞれの暦が、おのずから目にうかぶ。松が松になりきっているように、竹は竹の個性を持ち、眼前の生物風格としては尽きぬ風情を見せる。

西洋哲学の時間論は、専門用語に悩まされながら必死で追跡してみても、結局、名状しがたいニヒリズムにしか導いてくれない。道元は、違う。深い慰めを、この鎌倉初期の思想家は用意してくれているような気がする。

石井氏は序文で、「仏教諸宗派に関心のない訳者は、本書をなによりも人間の学つまり哲理として読み進める態度を根幹に置きました」と述べている。よいかな、である。それでこそ、私のような者にも道元の世界に参入することができる。

いうまでもないことながら、現代訳の前に道元の原文が引いてある。「しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去(ひご)するとのみ解会(げえ)すべからず、飛去は時の能とのみは学すべからず」――これを声に出して称(とな)える快感も、すぐあとに現代訳があるからこその楽しみだ。寺田透氏の大業を継ぐ偉業といっていい。おかげさまで道元に間に合った、というのが、さしあたっての、私の個人的感懐だ。
現代文訳 正法眼蔵 1  / 道元
現代文訳 正法眼蔵 1
  • 著者:道元
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(385ページ)
  • 発売日:2004-07-02
  • ISBN-10:4309407196
  • ISBN-13:978-4309407197

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初出メディア

初出媒体など不明

初出媒体など不明 1996年11月3日

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