現代文訳 正法眼蔵 1
- 著者:道元
- 出版社:河出書房新社
- 装丁:文庫(385ページ)
- 発売日:2004-07-02
- ISBN-10:4309407196
- ISBN-13:978-4309407197
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仏とは心のことだと。気違い沙汰だ。ずばり心を指して、仏にするって。天の向うとこっち程離れたものをか。盃三杯で海の水を汲みつくそうとするようなものだ。
生れるも死ぬもそれがどこから来るという出どころはない。霊雲志勤は桃の花を見て大悟したが、その桃は首年も昔の桃の種から育ったものだ。瑞雲たなびくがごときめでたい話だが、おかしなことだ。どうしてそのときのその花で悟ったのか。
そうであるから、松も時である。竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解してはいけない、飛び去ることが時の活らきとだけ考えてはいけない。時というものがもしも飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない隙間が出来るはずだ。有時という真理に耳を傾けないのは、時とは過ぎるものとだけ考えるからである。要をとっていえば、全世界にあるところの全存在は、連なりながら時である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによって我が実存は時である。吾有時(ごいうじ)である。
眼前の松と竹とは、それぞれ姿が異なるが、どちらも『いま』の相としてとらえることができる。切実に時間にかかわっている。
松と竹を『有時』の風景として眺めると、それぞれの成り立ちの違いが見えてくる。松の歳月、竹の風情ともいうべきそれぞれの暦が、おのずから目にうかぶ。松が松になりきっているように、竹は竹の個性を持ち、眼前の生物風格としては尽きぬ風情を見せる。
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