著者自身の体験で語る半自伝
今とりあえず私自身は苦しくも切なくもないが、生きているかぎり、どうせそういう時期が来るに決まっている。だから本書は、いつ、だれが読んでもいいわけである。著者は永平寺出身のお坊さんで、著者の考える仏教の教えをいわば間接的に説いたものである。欧米風の思想書とは違い、体系的に大所高所から、つまり神様目線で人生を説くのではなく、具体的な著者の体験をつないで語る半自伝でもある。そういうわけで、まとめて評しようがない本だから、まあ読んでくださいと申し上げるしかない。第一章「恐山夜話」では著者が院代、住職の代理として務める恐山での経験を語る。一つは「後ろ向き人生訓」と題され、引率の先生から高校生向けに話を頼まれて、夢だの希望だの、努力すれば報われるなどという前向きの話は一切しません、とその先生に言う。評者自身も若者向けの話には困るので、本音はまったく同じ、まさに我が意を得たり。最後の挿話は「名器の霊」と題され、所有者がそれを手放すと死ぬという言い伝え(迷信)があるギターの話。著者はその供養を引き受けるが、この挿話は人間の心の深みを突き、誠に感慨深い。
第二章「禅僧の修行時代」では、著者の永平寺での修行を回顧する。可笑(おか)しな挿話の連続だが、そこにお坊さんらしい「人生訓」がこめられる。「かれこれ三十年近く様々な人の話を聞いてきたが、その間につくづくと思ったのは、人が死にたくなるほど苦しくなるとすれば、それは人間関係がこじれた時だ、ということである。」。思い当たる人も多いであろう。
第三章「お坊さんらしく、ない。」はより近年の著者の体験に触れる。諸行無常、無我、縁起などの仏教的な概念が具体例によって紹介され、主題が仏教そのものに近づく。例を一つ、引いておこう。「自分が自分である根拠は、自分以外にある。自分は自分でないものから生起する。自分は自分に成りたくて成ったのではない。自分にさせられたのだ。茶碗は茶碗であるべくしてそこにあるのではない。自分が茶を飲むとき、その物体は初めて茶碗になるのだ。それが、私にとっての『縁起』の意味であった。」
第四章「よい宗教、わるい宗教」は、いわゆる新興宗教の問題に触れ、こういうものにうっかりはまらないためにはどうするかを語る。それをバカらしいとして全否定することは簡単だが、それでは欠落するものがある。人間を深く理解するためには、存在するものはしょうがないと捉えて、具体的にそれに対処するしかない。著者の立ち位置はまさにそれで、付き合ってもいい宗教者がどういう人であるかを箇条書きしたりする。さらに「宗教2世」と「カルト2世」と題して、世襲の僧侶に対する著者の意見を記す。著者自身が「自己カルト」だったのかもしれないという自省は興味深い。
最後の第五章は「苦と死の正体」と題され、「行き先の心配」として、「死んだらどうなる」が論じられる。これは既成宗教の微妙な問題だが、論理的、実証的な回答はないのだから、論者の立ち位置が明確になるにとどまる。評者も八十代後半という年齢となり、ある意味での言説の無力さを思う。苦も死も実際にやってくるもので、言説上のことではない。