書評

『新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力』(藤原書店)

  • 2018/01/10
新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力 / アラン・コルバン
新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力
  • 著者:アラン・コルバン
  • 翻訳:山田 登世子,鹿島 茂
  • 出版社:藤原書店
  • 装丁:単行本(390ページ)
  • 発売日:1990-12-01
  • ISBN-10:4938661160
  • ISBN-13:978-4938661168
内容紹介:
序 ジャン=ノエル・アレと悪臭追放の闘争史 1 知覚革命、あるいは怪しい臭い(空気と腐敗の脅威;嗅覚的警戒心の主要な対象;社会的発散物;耐えがたさの再定義;嗅覚的快楽の新たな計略) 2 … もっと読む
序 ジャン=ノエル・アレと悪臭追放の闘争史 1 知覚革命、あるいは怪しい臭い(空気と腐敗の脅威;嗅覚的警戒心の主要な対象;社会的発散物;耐えがたさの再定義;嗅覚的快楽の新たな計略) 2 公共空間の浄化(悪臭追放の諸戦略;さまざまな臭いと社会秩序の生理学;政治と公害) 3 におい、象徴、社会的現象(貧民の悪臭;「家にこもるにおい」;私生活の香り;陶酔と香水壜;「汗くさい笑い」;「パリの悪臭」)
《におい》というと、必ず思い出すのがヴァン・ヴォートのSF短編『はるかなり、ケンタウルス』である。それはこんな物語だ。人類はついに長年の夢を実現し、最も近い恒星=アルファ・ケンタウリに向かって亜光速の宇宙船を打ち上げる。亜光速といっても、アルファ・ケンタウリまでは、何百年もかかるので飛行士たちは冷凍カプセルに入り、目的地までは冬眠して過ごすことになっている。飛行士たちが冬眠から覚めた時、アルファ・ケンタウリの方角から超光速の宇宙船が近づいてくる。飛行士たちは、どこかの高度な異星文明の生み出した宇宙船だと思い込むが、じつはそれは未来の人類がアルファ・ケンタウリから遣わした出迎えだった。宇宙船が数百年の旅を続けているあいだに、相対性原理によるウラシマ効果が働いて、地球上では数千年の年月が経過し、人類は超光速の宇宙船を作り出して、アルファ・ケンタウリと自由に往き来していたのである。こう書くと、どこが《におい》と関係があるのかと疑問に思うむきもあるだろうが、実は、いかにもSF的なオチのあとにこんなエピソードがついている。すなわち、歓迎の意を表しにやってきた遠未来の人類は、一歩宇宙船に足を踏み入れるや、近未来の人間の発する体臭に堪えられず、そそくさと退散してしまうのである。

このように芳か臭かという違いは、あくまで環境的な習慣が左右する相対的な問題であり、どれほどひどい悪臭でも慣れてしまえば少しもくさいとは感じない。ところが、ヨーロッパの歴史において、一度だけそうではないことが起こった、それは十八世紀の中頃のことである、というのが、アラン・コルバンがこのユニークな嗅覚論の出発点とした発見である。

コルバンは、当時の医者や化学者が、大地や人体の発散する臭気を、瘴気(しょうき)の重要な構成要素と見なして、突如、悪臭の追放に立ち上がったことに注目する。それまでは何世紀もの間、王候貴族も下層民も悪臭の充満した環境に何の反発も示さず、ヴェルサイユ宮殿は至るところ糞だらけで、パリの街路には、窓から糞尿や生ごみが投げ捨てられていた。十八世紀のなかばに、こうした事態に格別の変化が現れたわけではない。にもかかわらず、なぜか医者や化学者は突然、悪臭への許容度が厳しくなったかのように《嗅覚的警戒心》を働かせ、悪臭に対し猛烈な戦いを挑み、公衆衛生学という極めて十九世紀的な学問を確立していったのである。

コルバンは、こうした公衆衛生学の戦いを、悪臭の《オデッセイア》として記述していくが、そのかたわら、最初に提起した謎への解答を見いだそうと努力している。かくして、墓地の死体、糞便、家畜の死骸、監獄といった個々の悪臭源に対する戦いの跡がたどられると同時に、公衆衛生学の指針となった感性のブルジョワ性が徐々に暴かれていく。すなわち、公衆衛生学は、清潔と無臭という新たな価値観を導入することによって、悪臭に鈍感な貴族階級と下層階級をともに断罪することを、いわば無意識的な目標として成立した学問なのである。貴族階級の排除に成功したブルジョワ階級は、社会体(コール・ソシアール)の脱臭化戦略を展開する一方で、個々の人体の脱臭化を射程に取り込み、くさい臭いを発する下層民衆と自分たちを差異化する方向性を打ちだしていく。その際、強迫観念として作用していたのが、「くさい階級=危険な階級」という認識であったことはいうまでもない。

コルバンは、こうした観点から、においのもう一方の極である《香水》の成立過程をも解き明かしていく。コルバンによれば、花のエッセンスをべースにした今日の香水は、環境と人体の同時的脱臭化という、この公衆衛生学的理念の勝利から発生したものだという。というのも、十八世紀半ばまでは、香水といえば、淫蕩な貴族たちが、みずからの性臭を強調するために使っていた動物性の香水を意味していたからである。淡いにおいの香水は、人体と環境の脱臭化が進行していく過程で女体のほのかな体臭を際立たせるために浮上したものにほかならない。ひとことで言えば、悪臭の除去と馨(かぐわ)しい香水の誕生という二つの要素は、すぐれてブルジョワ的な感性の要請に基づいて登場した、重要な歴史のファクターだったのである。

もしも「フランス人は風呂に入らないから、体臭を隠すために香水が普及した」という俗論を本気で信じている人がいたら、ぜひ本書を一読することをお勧めしたい。今日の我々の《嗅覚》はそれほど単純なものではなく、これもまた《近代》のつくりだしたものだということがおわかりになるだろう。
新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力 / アラン・コルバン
新版 においの歴史―嗅覚と社会的想像力
  • 著者:アラン・コルバン
  • 翻訳:山田 登世子,鹿島 茂
  • 出版社:藤原書店
  • 装丁:単行本(390ページ)
  • 発売日:1990-12-01
  • ISBN-10:4938661160
  • ISBN-13:978-4938661168
内容紹介:
序 ジャン=ノエル・アレと悪臭追放の闘争史 1 知覚革命、あるいは怪しい臭い(空気と腐敗の脅威;嗅覚的警戒心の主要な対象;社会的発散物;耐えがたさの再定義;嗅覚的快楽の新たな計略) 2 … もっと読む
序 ジャン=ノエル・アレと悪臭追放の闘争史 1 知覚革命、あるいは怪しい臭い(空気と腐敗の脅威;嗅覚的警戒心の主要な対象;社会的発散物;耐えがたさの再定義;嗅覚的快楽の新たな計略) 2 公共空間の浄化(悪臭追放の諸戦略;さまざまな臭いと社会秩序の生理学;政治と公害) 3 におい、象徴、社会的現象(貧民の悪臭;「家にこもるにおい」;私生活の香り;陶酔と香水壜;「汗くさい笑い」;「パリの悪臭」)

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新評論

新評論 1988年10月

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