書評

『ある夜、クラブで』(集英社)

  • 2018/03/11
ある夜、クラブで / クリスチャン・ガイイ
ある夜、クラブで
  • 著者:クリスチャン・ガイイ
  • 翻訳:野崎 歓
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(191ページ)
  • 発売日:2004-10-26
  • ISBN-10:4087734226
  • ISBN-13:978-4087734225
内容紹介:
我を忘れる一時の甘美さと、その代償の重さを深く味わえばいい-。妻のためにピアノを捨てた伝説の名ジャズピアニストは、ある夜、クラブで、断念したはずの音楽と運命の女に出会う…。人生を取り戻したい大人に贈る恋愛小説。
「昔一世を風靡したジャズピアニストがさ、今じゃ工場の温度調整を管理するエンジニアとして地道に暮らしてんのね。ところが、ある晩出張先で列車に乗り遅れたことから、地元のジャズクラブに行くことになっちゃって。で、それまで断ってた強い酒を飲んで、ライブ演奏を聞いてるうちに、ジャズ魂が蘇ってきちゃうわ、店の美人オーナーと一日で恋に落ちちゃうわで、まーた列車を乗り過ごしちゃうわけよ。でね――」

なんて粗筋を聞いてしまっていたら、わたしはこの小説を読まなかったにちがいない。そんな、雑誌『LEON』かなんか読んで、今さら不良志願してるようなオヤジが夢みるファンタジーなんて、負け犬の段階などとうに過ぎ、いまや富士の樹海に捨てられた野良犬のごとき心境にある四十路女にゃお呼びじゃないっつーの。(事務局注:本書評執筆時期は2005年)

と・こ・ろ・が! いつだって百聞は一見に如(し)かずということ。すんごいチャーミングな話で、一読魅了されてしまったんである。だって、主人公のシモンが面白すぎっ。この男、バリバリのジャズマンだった頃、酒とドラッグと女まみれの生活を送り、死にかけたことがあるのね。それを救ってくれたのが長年連れ添う妻シュザンヌ。シモンは以降一〇年間、二度とオーバーヒートしないよう、妻に”温度調整”されてたわけ。それが〈ある夜、クラブで〉はじけちゃう。挙げ句、パリ行きの列車には乗らず海辺の町で一晩過ごし、翌日は四六時中「シュザンヌに電話しなきゃ」と思いながらも、ジャズクラブのオーナー、デビーとの逢瀬を楽しんでしまうのだ。

Hな事情から汚れてしまったズボンを洗おうとして海に落ち、またも列車に乗り遅れたり、沖に向かって泳いでいくデビーを見ながら〈あんまり遠くまで行かないで〉〈もし女房に愛想を尽かされるとしたら、あなたには生きていてもらったほうがいいから〉なんて都合のいいこと思ったり、堪忍袋の緒が切れたシュザンヌが車で迎えにくることになれば〈交通事故で死んでくれないかな〉とけしからん願望を抱いたり――。シモンという男、初老のくせして子供っぽいというか、天然というか、裏表がなさすぎなのだ。

と、紹介してしまうと、フェミニズム系の人の怒る顔が目に浮かぶようなんだけど、シモンの言動に目くじら立てちゃうと、この小説の味みたいなものが消えてしまうので、とりあえずまっさらな気持ちで読んでみてほしい。たとえば、列車に乗り遅れたら大変と思っているシモンと彼を帰らせたくないデビーが、その駆け引きを「あら、そう」「うん、そう」の繰り返しで遊び、やがて指を鳴らしてリズムを取りながら〈あらそう=うんそう〉の〈変口短調による即興を少なくとも九十六小節分〉展開するシーン。その可笑しさと愛らしさといったら絶句ものなんである。

デビーと出会い、再びピアノを弾くようになったシモンが抱く、妻が迎えにくるまでの〈この自由な四時間は実はこれまでもずっと存在していたのであり、いつ始まったわけでもなく、それゆえいつか終わるはずもなく、いわば終わりなき終わり、終わりなき始まりなのだ〉という感慨は、結婚していないだけで“負け犬”なんてありがたくない称号を押しつけられ、「もう若くない」「まだまだっ」の狭間(はざま)で揺れる三〇代女子にも共感できるのではないだろうか。誰だって年はとる。誰だって、いずれ、この小説に描かれるシモンのじたばたと無縁でいられなくなる。その意味で彼は、我々の親しい友になりうるキャラクターなのだ。

フランス伝統の文芸形式コントのような体裁の、とても短い物語の中に、笑いにくるんだ人生の酸っぱさ甘さ苦さを、ビル・エヴァンスが演奏するジャズの名曲『ワルツ・フォー・デビー』のごとく優しく軽妙洒脱なメロディーで奏でた小品。一度読んだら愛さずにはいられない、これは大人のための寓話なのである。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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ある夜、クラブで / クリスチャン・ガイイ
ある夜、クラブで
  • 著者:クリスチャン・ガイイ
  • 翻訳:野崎 歓
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(191ページ)
  • 発売日:2004-10-26
  • ISBN-10:4087734226
  • ISBN-13:978-4087734225
内容紹介:
我を忘れる一時の甘美さと、その代償の重さを深く味わえばいい-。妻のためにピアノを捨てた伝説の名ジャズピアニストは、ある夜、クラブで、断念したはずの音楽と運命の女に出会う…。人生を取り戻したい大人に贈る恋愛小説。

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初出メディア

PHPカラット(終刊)

PHPカラット(終刊) 2005年3月

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