日本に最も欠けているのは「恋する日常」
事務所が同じ西麻布にある関係でジョギングしている猪瀬直樹さんの姿をよく見かける。都知事時代も辞職後の不遇時代も、自分で自分に課した規律を守ることを第一義に考える人らしく、苦しげな表情でひたすら前に向かって走り続けている。猪瀬さんとは『ペルソナ 三島由紀夫伝』の書評を書いて以来の仲だが、そんな猪瀬さんがオリンピック招致活動中に最愛の奥さんを亡くされ、その後、都知事を辞任して「振り出しに戻る」かたちで物書き家業を再開されたというので一度飲みに誘おうかと思っていた矢先、西麻布の中華料理店で隣席になった。画家・女優の蜷川有紀さんとご一緒だったが、二人の馴れ初めについてはまったく尋ねなかった。それが本書で完全に明かされることになったのだ。
愛妻に先立たれたばかりか公的にすべてを失った六十六歳の男が、三年後に亡くした妻と誕生日も血液型も同じ女性と出会って一目惚れし、「人生には終りだけではなく、どこかでいつでも始まりが用意されている」と感じて恋愛へと突き進んでいく。そんなストーリーが対談(第一部)とその間の事情を綴った蜷川有紀さんの日記(第二部)によって描かれる二部構成の本だが、読者にとって参考になるのは蜷川有紀さんの次の言葉だろう。
「ふつうの男性にとって、妻はいつの間にか日常になってしまう。(中略)ところが、猪瀬さんは違う。(中略)猪瀬さんの肩に奥様がもたれかかっている写真が掲載されていますが、パッと見ただけでお二人の愛情や信頼関係が伝わってくる。こういう関係性を維持できるのは、猪瀬さんがとても率直だから? 猪瀬さんをひと言で言えば"少年"。子どものような率直さを少しも失っていないのよ」
有紀さんのいう「関係性」を猪瀬さんは「恋する日常」と呼び、それが有紀さんを口説き落とす決め手となったようだが、日本に最も欠けているものこそこの「恋する日常」なのではないだろうか? 人生百年となった二十一世杞において一つの指針となるような本である。