書評

『睡蓮の長いまどろみ』(文藝春秋)

  • 2018/07/27
睡蓮の長いまどろみ / 宮本 輝
睡蓮の長いまどろみ
  • 著者:宮本 輝
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(304ページ)
  • 発売日:2003-10-11
  • ISBN:4167348152
内容紹介:
イタリアのアッシジで、42年前に自分を捨てた母・美雪に身分を隠して再会した順哉は、帰国後、喫茶店のウェイトレス千菜がビルから飛び降りるのに遭遇する。自分と父を捨てて家を出た美雪の事情がしだいに明らかになる一方で、死んだはずの千菜から手紙が届くようになる-。謎が謎を呼び、ミステリアスに物語は展開する。
宮本輝は出発の時から、生まれながらの差によって人が受けなければならない悲しみや苦しみを描いてきた。その描き方は、いかにしてその差をはね返し、自らの人生を肯定的なものに変えてゆくかを動機として秘めながらも、それを親子や男と女の愛と憎しみの関係のなかで確かめていくという方法で貫かれていた。

それは太宰賞を受けた『泥の河』から、芥川賞の『蛍川』そして翌年の短篇集『幻の光』更らに『道頓堀川』『錦繡』へと続く作品の性格であった。彼が、

――これらの『生まれながらについている差』は、もはや宿命と呼ぶしかない。それを宿命と呼びたくない人もいるに違いないが、意志とか努力とかの及ばない領域については、やはりそう呼ぶしか仕方ないであろう。しかも、多くの文学作品は、この宿命というものに対する、敗北の記録であった。(「宿命という名の物語」)

と書いた時、自分は宿命と戦う人間の姿を描くのであって、その敗北を描きたいのではない、と考えていたのは確かなことのように私には思われる。

『幻の光』のあとがきで、

「病気を体験すると、それ以後、見えるものが変ってくると言われる」

という友達の励しの言葉に続けて、

「病気になる前と今とでは(中略)何ら変化がないように思われる」

と宮本が言っているのは、すでに自分は人間関係の苛酷さや生命の脆さなどを知りつくしたところから出発しているというひそかな自覚に裏付けられてのことではなかったろうか。そうした彼にとって結核のための長期入院は、心境に大きな変化を与えはしなかった。

そうして、宮本文学のひとつの里程標になっていると私には思われる『道頓堀川』のなかで宮本は経済的繁栄に酔って人間であることから無限に離れていく時代相に反して、亭主よりも甲斐性のない男に妻を奪われる主人公、武内鉄男を登場させて、物質的、肉体的な魅力によっては満すことができない渇きを女性もまた持っていることを示した。

この主人公武内には一家離散という宿命がつきまとっており、その宿命の顕在化には戦争が絡っているのである。一方、もう一人の主人公安岡邦彦は父に捨てられた男であり、どこか未成熟なものを抱えた人間である。彼は老人のパトロンを持つ年上のまち子姐さんと恋に陥ることで変る。ここには道頓堀川の歓楽街に生きる女を知ることで、その界隈を「あんなに眩ゆい、物寂しい光の坩堝」と見る力を獲得する邦彦の逆説を負った宿命が現れている。そうしてこの二人の登場人物の視点がより人間的に生きようとする姿勢を靱帯にして交錯するのである。

宮本文学の特徴のひとつに、主題の深まりが常に手法の変革と平仄を合わせているということがある。多くの批評はこの破綻のなさを描写の巧みさ、自然や町の佇いを人生の喩として使う手法の鮮やかさのゆえと考えているように思われる。しかし、そうした技法が生きるのは構成が緻密であり思想の深さが獲得されているからではないだろうか。実は、この二つの欠落こそわが国の近代文学の宿痾なのだ。そして『錦繡』で宮本は、宿命との戦いを「どんな不幸をも内的必然と観じ」それに耐えてゆく姿勢を持った女主人公を描くことで、主題を一歩思想の領域へと進めたのであった。ここで個別の宿命は人間存在の淋しさへと普遍化される契機を持った。

この宮本の思想の根底にあるのは仏教的世界観であるが、今日世俗にまみれているそのなかから本来の精神性を汲み出すには美意識という強靱なフィルターが必要なのではないか。ポエジーを持たない思想が今日は横行しているのだから。

こうした宮本文学の骨格と流れのなかに『睡蓮の長いまどろみ』を置いてみると、作者がこの小説に籠めた想いの深さが見えてくるように思われる。

主人公世良順哉は生れて間もなく母親と生別している。成年に達した彼は妻と共にイタリアのアッシジを訪れる。今は孤児教育施設を運営している生母がそこに滞在しているのを知って、それとなく彼女に会うためである。彼は母親を偽善者と思い込むような烈しい性格ではない。生母美雪は彼を息子と気付かなかったようで、対面は不完全燃焼のまま終る。日本に戻った直後、主人公順哉の見ている前でウエイトレスの加原千菜が飛び降りて死ぬ。ここからモラトリアム人間に近かった順哉のなかに変化が起る。

しばらくして、死んだはずの加原千菜から彼のところへ手紙が来る。謎が深まる。

小説の展開につれて、生母美雪が順哉を置いて家を出なければならなかった事情が明らかになってくる。順哉の両親は止むを得ない事情で「合意の上」で別れたのだった。そこには「落ちる」という言葉に現われている宿命があった。

この作品を支えている思想は「因果倶時」である。「原因が生じた瞬間に結果もそこに生じている意味らしい」と美雪は言う。決定論と戦って自らの運命を拓いてきた女性がそう言う時、彼女は、あるいはその背後から作者は「だから宿命と戦え」と説(と)いているようにも読むことができる。

この作品について宮本は、

「本音と言ったら変だけど、いままでオブラートに包んできたものを、もう少しお天道さまに当てる、そんな書き方をしてみようかなと(考えた)」と語っている。

この作品の前に阪神淡路大震災があり、『ひとたびはポプラに臥す』の六冊にまとめられた四十日間のシルクロードの旅があった。一方では『流転の海』と題された自伝的小説も書き続けられている。

かつて、「病気によっては変化がなかった」と言った作者は、いま大きく舵を切ろうとしているように見える。その意味でもこの『睡蓮の長いまどろみ』は、本人にとっても現代のわが国の文学にとっても大きな意味を持った作品と言うことができる。

【この書評が収録されている書籍】
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本 / 辻井喬
辻井喬書評集 かたわらには、いつも本
  • 著者:辻井喬
  • 出版社:勉誠出版
  • 装丁:単行本(256ページ)
  • 発売日:2009-07-21
  • ISBN:4585055010
内容紹介:
作家・辻井喬の読んだ国内外あらゆるジャンルの書籍を紹介する充実のブックガイド。練達の読み手がさそう至福の読書案内。

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睡蓮の長いまどろみ / 宮本 輝
睡蓮の長いまどろみ
  • 著者:宮本 輝
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(304ページ)
  • 発売日:2003-10-11
  • ISBN:4167348152
内容紹介:
イタリアのアッシジで、42年前に自分を捨てた母・美雪に身分を隠して再会した順哉は、帰国後、喫茶店のウェイトレス千菜がビルから飛び降りるのに遭遇する。自分と父を捨てて家を出た美雪の事情がしだいに明らかになる一方で、死んだはずの千菜から手紙が届くようになる-。謎が謎を呼び、ミステリアスに物語は展開する。

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初出メディア

群像

群像 2001年1月号

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