あとがき
いま、ある雑誌で、「考えるための方法」について連載していますが、そこで暫定的に出した結論はというと、「考えるとは比較することだ」というものです。言い換えると、観察すべき対象が二つ以上なければ比較することは不可能なので、考えることもまた不可能だということになります。たとえば、自分が生まれて育った町について考えるということは、親が転勤族で年中移動していたという人を除いて、案外、考察を巡らすのが難しいものです。
ですから、都市について考えようと思ったら、とりあえず、都市を二つ取り上げて、比較してみるほかはないのです。比較が可能になれば、なんとか思考を巡らすことができるからです。
しかしながら、本当のことをいえば、どうせ比較するのだったら、比較のしがいのある対象を最初から選ぶべきなのです。なにからなにまでそっくりで、差異というものが見つけることができないような二つの対象を選んでもしかたありません。むしろ、対照的なもの、いや正確には、一見すると似ているように見えるけれど、実際はまったく異なっているようなものを選んでこそ、比較の「しがい」があると言えるのです。
この意味で、本書の編集を担当された土井彩子さんが選んだ、京都とパリという二都市は絶妙の選択というほかありません。
たしかに京都とパリは一〇〇〇年あるいはそれ以上の歴史を持つ古都で、真ん中に大きな川が流れているという地理的環境も似ています。また、京都人とパリジャンという住民も、非常に癖のある人たちということで同じカテゴリーに含まれるかもしれません。
では、両者がそっくりかといわれれば、私はまったく違うと言わざるをえません。むしろ、正反対と言ったほうが正解なのかもしれません。
しかしながら、まさにそれゆえに、京都とパリはおおいに比較の「しがい」のある町同士だということになるのです。
とはいえ、私に関していうと、パリについては少しは知っていますが、京都についてはほとんど知りません。いっぽう、井上章一さんは、『京都ぎらい』という本を書かれているくらいですから、パリはともかく、京都についてはかなり詳しいはずです。
ならば、二人で、京都とパリについて、その嫌みなところと愛すべきところを徹底的に語りあったら、類似と差異がくっきりと浮かび上がって面白いことになるのではないか?
どうやら、土井さんはこのように考えられたようなのですが、果たして、対談が土井さんの意図されたような方向に進んでいったかどうか、これはまったく保証の限りではありません。
なにしろ、二人は『ぼくたち、Hを勉強しています』というヘンテコリンな対談集を出したことのある人間です。放っておくと、どうしても話がそちらの方向に逸脱する傾向があることは否めません。
というわけで、本書は、「考える」ということは「比較する」ことだという大原則にしたがって、京都とパリを比較してみようという土井さんのたいへんまっとうな意図から出発した本なのですが、対談者として選ばれた二人がおおいに問題のある二人だったため、その評価については読者の判断にお任せするほかなくなってしまったようです。
ただ、「考える」ことに寄与したか否かは別として、たいへん面白い対談になったことだけは確かです。井上さんとは数え切れないくらい対談していますが、その中でもベスト3に入る対談なのではないでしょうか?
二〇一八年八月七日 鹿島 茂