伊勢へ、伊勢へ。誰もが一度は行きたくなる
大学生の頃、唐突に伊勢参りに出掛けたことがある。すべてを投げ出して、お伊勢さんへ。江戸時代にもこういう人はいたらしくて、商家の小僧さんが突然勤めを放り出して伊勢へと向かう、なんてこともあったそうだ。これを抜け参りというが、参詣を終えて戻ってきた奉公人を主は咎(とが)めなかったという。だが私の伊勢参りは失敗に終わった。それもそのはずで、その日は平成の大嘗祭(だいじょうさい)、つまり今上(きんじょう)天皇が即位されて最初に行われる新嘗祭(にいなめさい)で、一般参拝はできなかったのである。調べてから行けばいいのに、昔の私。
そんなことを思い出して、昨年伊勢神宮にお参りしてきた。20年越しの参宮だから、ただの旅行ではつまらない。伊勢街道約70kmを歩いて参拝してきたのである。時期は当時と同じ11月、新嘗祭の頃。新嘗祭とはその年の収穫物を神前に捧げる儀式である。私も随所で自然の恵みのご相伴(しょうばん)にあずかった。なんでも美味(おい)しいが、ありかたいのは餅である。歩き疲れたときには、餅菓子が一番なのだ。赤福が有名だが、へんば餅も捨てがたい。馬上に揺られ参宮道をやって来た人も宮川のほとりまでくれば降りて、馬を返さなければいけない。そこの茶屋で出す餅で、へんばは「返馬」と書く。梶よう子『お伊勢ものがたり 親子三代道中記』にも、伊勢街道を別名「餅街道」と呼ぶ、との記述があった。
『お伊勢ものがたり』の主人公は武家の奥方である香矢(かや)。彼女が母・まつと奔放な娘の雪乃に振り回されながら江戸から伊勢までを旅する物語だ。伊勢を目指す人々の群像劇にもなっているところが面白い。
香矢たちが出会うなかには抜け参りの小僧さん・与市がいるのだが、彼は途中で仲良くなった犬・シロを連れている。実は当時の文献にも、犬が伊勢参りを果たして江戸に戻った、という事例が多数報告されているのである。犬に旅情があるはずがないが、それを言えばさして信仰心のない大学生が突如参宮を志した例もある。伊勢の不思議な引力である。