書評
『ライシャワー大使日録』(講談社)
各界の人士と会見
ライシャワー大使が赴任したのは一九六一年、退任は六六年、在任期間五年だった。歴代の駐日大使で最も日本人に知られ、マスメディアで取り上げられた回数もいちばん多かった。その証拠に、ライシャワー刺傷事件は命に別状があるほどのものではないのに六四年の十大ニュースに入った。本書でも「私の事件が原潜寄港を抜いて八位に入った」と、驚きをもって記されている。親日派のライシャワーに申し訳ない、というのがふつうの日本人の素朴な感情だったが、大使は「どうせ痛い思いをするのなら、最大限に利用するに限る」と、冷徹に記している。六〇年安保闘争後に岸内閣が退陣、低姿勢の池田内閣が誕生した。反米気分が横溢(おういつ)していたところにケネディ人気と日本人のハル夫人を伴ったライシャワーがPRマンとして登場した。効果はてきめんだった。学者大使は努力家でもあった。連日、各界のあらゆる人士と会見した。本書にはハル夫人のメモも収録されているが、「昨年はひと月平均千人ほど」が公邸を訪れ、刺傷事件後は「一週間でそれだけの人数」とある。
良好な日米関係を保つため野党政治家も昼食に招いた。歯に衣着せぬホンネの寸評も、発表が前提でない備忘録のおもしろさだ。たとえば社会党書記長の成田知巳を「痛ましいほどの空論家で、マルクス主義の専門用語を振り回していたが、人間的に好きになれそうな人物」であり、原潜寄港に抗議するために来訪したキリスト教指導者について「共産主義者は本来平和を好み、われわれ資本主義者は戦争を好むというマルクス主義路線を丸呑(の)みにした調子」「ぞっとする」と書いた。のちにライシャワーは大使を辞めてから、核武装艦艇の寄港の事実を公表する。非核三原則のうち「核を持ち込まず」は日本政府が自国民向けに用意したフィクションだったと判明する。本書には、原潜寄港の日時は「表向きは海軍の都合しだいということになっているが、ほぼ私の裁量に任されている」などとさりげなく書かれていた。入江昭監修。
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