書評
『増補競馬学への招待』(平凡社)
ダービー前夜は山本一生の本を読もう
この号が出る時には、すでにオークスが終わっていて、ダービーが直前のはず。サラブレッド四歳の春のクライマックスである(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年ごろ)。もし、競馬というものが文化であるなら、その国の競馬文化はそこで発刊されている競馬の本の質と量による――といわれる。競馬本の聖地、ロンドンのアレン書店に入り、書架に並べられた本の多彩さを見る度に、ぼくは軽い目眩のようなものを感じ、そしてやっぱり日本で(馬券本は多いが)競馬本は少ないと思わずにはいられない。いや、もちろん、世界中どこへ出しても恥ずかしくない素晴らしい本もたくさんある。現役に限るなら、競馬について書かせて山野浩一以上の存在は世界にひとりもいない。彼の特徴は、途轍もなく巨大な知識と、そこから流れ出す蒸留されたような極度に禁欲的な文体だ。だが、四半世紀以前の「SFマガジン」や「NW-SF」の愛読者であるぼくにとって、なによりも山野浩一は『X電車で行こう』や『鳥はいまどこを飛ぶか』の作者なのである。ニューウェイヴSFの日本での最大の確信犯だった山野浩一は、作品の中で繰り返し「現実世界という強固な存在に順応している」人々(「虹の彼女」)への不信を語っていたが、それはSFを書かなくなったいまでも少しも変わっていない。競馬について書く人間のほとんどは、目の前の競馬という世界の実在を前提にして書き始めるが、山野浩一の仕事は、競馬という世界を存在させることにすべてが注がれている。自分が書き続けなければ明日にも競馬というものが消滅してしまうかもしれない、彼の禁欲的な文体を支えているのはその深い畏れなのだが、このことはあまり理解されていない。
馬は見ることができる。調教師や騎手も見ることができる。馬券は手にすることができるし、ダービーの興奮を自ら味わうこともできる。しかし、競馬という世界を直接「見る」ことはできない。それは想像力を介してのみ「見る」ことができる世界なのだ。
山野浩一の作品が近寄りがたい峻険な山脈なら、山本一生の書く競馬の世界はもう少し優しく、ぼくたち競馬ファンに語りかけてくる。ぼくの長年の疑問は、どうして競馬雑誌は、山本一生のような競馬に愛された(競馬を愛する人は多い。けれど「愛された」人は少ない)書き手に依頼しないのかということだが、彼のあまりにも典雅でシャイな文章は、すさんだ紙面に合わないと判断されるためだろうか。
彼の素晴らしき傑作『競馬学への招待』(ちくま新書のち平凡社ライブラリー)から、そのほんのさわりを引用する。
四歳の春とは、不思議なときである。まだ見るもの聞くものすべてが新しく、激しい気質を抑える術もなく、遮るものがあれば正面からぶつかるしかない。ときには東の空のあけぼのを夕焼けだと思って生き急ぐこともあれば、ときにはみずからの才能に気がつかず、みにくいアヒルの子としてすごすごともある。あるいは運もなく、人間の作った不条理な規則によって無為な日々を強いられたり、あるいはそのときの一瞬のきらめきに生涯を決めたりもする。だれもが出会う、それぞれの四歳の春なのである。
サラブレッドの四歳の春とは、まさに人生における十五の春にほかならない。
不来方のお城の草に
寝ころびて
空に吸われし十五のこころ(石川啄木『一握の砂』)
【この書評が収録されている書籍】
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