書評
『乗峯栄一の賭け―天才競馬コラムニストの栄光と苦悩〈92~96〉』(白夜書房)
競馬エッセイよ、どこへ行く
つい先日、タカハシさんは、有馬記念の観戦記を書いていた。そして、なんだかひどく奇妙な気がした。マジメで真剣な文章だったからである。ふだん、タカハシさんは「競馬探偵タカハシさん」として競馬の予想コラムを書いている。
そちらの方はたいへん平易である。いや、ユーモラスである。というか、くだけている。くだけすぎの感もあるけど。なんだか、そういう文章でないと感じが出ないのだ。
タカハシさんの知る限り、日本の競馬エッセイはたいへん種類も多いし、書き手も多いようである。タカハシさんは、かつて競馬発祥の地イギリスや競馬大国アメリカで、どのようなエッセイが書かれているか、現地調査したことがある。しかし、ポール・ヘイやジェイ・ホヴデイという例外を除けば「競馬エッセイ」という独自なジャンルを形成しているようには見えなかったのだ。
日本で「競馬エッセイ」というジャンルを確立したのは、寺山修司である。彼は競馬のアウトロー部分を愛し、そこにロマンスを付け加えた。この流れをいま受け継ぐのは『極道記者』の塩崎利雄だろう。しかし、競馬からアウトロー部分が消されてゆくに従い、寺山修司のスタイルを続けてゆくことは難しくなった。代わって浮上してきたのが、オモシロカナシズム派である。
競馬は面白く、また時に哀しい、そうだなご同輩――これがオモシロカナシズム派のスローガンだ。寺山修司や塩崎利雄には破滅願望があり、それは裏返しの巨人願望となっている。「生か死か」を問い詰めるのである。しかし、いま競馬ファンはそんな厳しい問いかけを好まない。
こちらの元祖は井崎脩五郎であり、
万馬券を見て青ざめる、そこの君は数秒後に興奮して逆に顔がはちきれんばかりにふくれあがり赤くなる。人生70点主義にはなかったワクワクドキドキを見てタクヤはひっくり返る。わしは淀の晴れた空に大笑いを響かせる。
というのが、わしの狙いだったのだ。そして、そうなるはずだったのに……。だ、だあ……、だ、だけんども、(略)。
となんだか椎名誠を思わせるかなざわいっせいや、その椎名誠の畏友でもある藤代三郎や、最近『乗峯栄一の賭け』(白夜書房)を出した乗峯栄一だ。
女王杯、いつもながらぼくは自分の買ったマジックキスしか見てなかった。馬も鞍上も実によく頑張っていた。とにかく前へ行こうとするキスと何が何でも押さえようとする角田。「お前ごときに」「何を言う、それはこっちのセリフ」とスタートからゴールまで続いた馬と人との渾身力比べ。ああ、涙が出た。グスン。(『乗峯栄一の賭け』)
かつて寺山修司は「大きな悪」に惹かれて競馬エッセイを書きはじめ、オモシロカナシズム派は「小さな悪」にターゲットをしぼることにしたのである。
ところで、競馬エッセイストとしてのタカハシさんがいちばん多く受ける質問は「どちらのタカハシさんが本物ですか」というものだ。
「競馬探偵タカハシさん」シリーズのタカハシさんは、オモシロカナシストである。最近、タカハシさんが出版した『競馬漂流記』(ミデアム出版社)は、きわめてシリアスであり、遠く寺山修司に源を発する流れに敬意を表して書かれている。
ふたつを読み比べると、作者が同一であるとは信じられぬくらいだ。どちらが本物なのか。あるいはどちらも本物なのか。いや、実はどちらも本物ではなかったりして。
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