書評

『アブサンの文化史: 禁断の酒の二百年』(白水社)

  • 2018/11/12
アブサンの文化史: 禁断の酒の二百年 / バーナビー・コンラッド三世
アブサンの文化史: 禁断の酒の二百年
  • 著者:バーナビー・コンラッド三世
  • 翻訳:浜本 隆三
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(254ページ)
  • 発売日:2016-12-28
  • ISBN-10:4560095299
  • ISBN-13:978-4560095294
内容紹介:
19~20世紀にかけて、芸術家たちに愛飲されてきた「緑の妖精」――ニガヨモギからつくられるアブサンを、図版もたっぷりと解説。

「緑の妖精」と芸術 民衆や政治

伝説の酒、アブサン。エメラルド色に輝くその液体は、人呼んで「緑の妖精」。水を加えればあら不思議、白濁してオパール色となる。アニスの香りに心地よく鼻孔をくすぐられ、口に含めばすっきりと爽やか。やがて陶酔境に誘われ、いま何杯目なのかもわからなくなってしまうのだとか。

フランスでデカダン(頽廃(たいはい))芸術の華が目もあやに咲き誇った19世紀後半、名だたる詩人、作家、画家のうちでアブサンを親しい友としなかった者はない。ランボーやヴェルレーヌをはじめ、アブサンを「聖水」と崇(あが)めた小説家ジャリや、仕込み杖(づえ)に入れて持ち歩いた画家ロートレックなど、いずれもこの強烈な酒に魂を奪われたくちである。

ファン・ゴッホの場合も、取りつかれ方には鬼気迫るものがある。彼の精神が錯乱を深めていった背後には、アブサン痛飲の悪影響があったと思(おぼ)しい。それどころか、彼のタブローの特徴をなす鮮烈な黄色の色相は、アブサン中毒に固有の視覚の変調によるものだという説さえあるのだ。

本書は19世紀から20世紀にかけて、西欧で驚くべき魔力をふるったアブサンについての、日本語で読める唯一の著作である。上記のような芸術家たちばかりではない。労働者や農民にも、心身の健康を損ねるケースが続出した。本書は第一章から、アブサン耽溺(たんでき)が原因となった悲惨な殺人事件の例を鮮烈なタッチで描き出し、読者の心胆を寒からしめる。

同時に読者は、ドガやゴーギャンやピカソの絵の中できらめきを放つアブサンのグラス(本書は素晴らしい図版満載である)を見つめるうち、一口だけでも飲んでみたいという危険な誘惑が胸のうちに芽生えるのを感じるはずだ。

さらに本書は、アブサンをめぐる医療や政治史もたどる。かつては霊薬とされ、フランス陸軍は兵士に携帯させたというのに、やがて高まる禁酒運動の嵐の中、あえなく製造禁止となる。しかしその毒性が科学的に証明されたわけではない。そして今日、アブサンの製造は、含有成分に制約をつけた上で合法化されているらしい。

結局、本当に危険なのは過度にのめりこんでいく人間の心根なのだろう。本書を読みながら「つねに酔っていなければならない。すべてはそこにある。それこそが唯一の問題だ」というボードレールの散文詩「酔いたまえ!」の詩句がたえず脳裏に浮かんだ。アブサンに罪はない。だがアブサンが数々の惨禍を引き起こしたことも確かである。甘美にして複雑な酔い心地に誘ってくれる一冊だ。
アブサンの文化史: 禁断の酒の二百年 / バーナビー・コンラッド三世
アブサンの文化史: 禁断の酒の二百年
  • 著者:バーナビー・コンラッド三世
  • 翻訳:浜本 隆三
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(254ページ)
  • 発売日:2016-12-28
  • ISBN-10:4560095299
  • ISBN-13:978-4560095294
内容紹介:
19~20世紀にかけて、芸術家たちに愛飲されてきた「緑の妖精」――ニガヨモギからつくられるアブサンを、図版もたっぷりと解説。

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初出メディア

日本経済新聞

日本経済新聞 2017年2月26日

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