日本の老人は恵まれすぎている!
「ドイツと日本、老後はどっちが快適か?」と考えはじめたら…
20年以上も前、「いつの日か、日本とドイツを半々で行ったり来たりの生活をしたい」と書いたことがある。当時は遥かな夢を語っていたつもりだったが、光陰矢の如し。ここ2、3年、めでたく、ほぼそういう生活となった。しかし、思いがけない罠があった。自分が年をとるということを計算に入れていなかったのだ。だから、ようやく夢はかなったものの、どうも、昔、思い描いたように軽快にはいかない。頻繁な飛行機での移動はくたびれる。おのずと、いつかこれができなくなったとき、では、どちらを終の住処にするかという問題が頭を掠める。
私の場合、家族がドイツにいるし、やはりドイツを終の住処にすることが正しいと、普通なら考える。私だって、他人様のことならそう思うし、若いときは、実際、そう思ってもいた。
しかし、いざ、そのときが近づいてくると、それほど簡単にはいかない。かつては、「世界のどこに住んでも私は私!」と勇ましかったが、最近は自分が日本人だという意識ばかりが年々増してくる。人間というのは、ある時点から、先祖返りするものらしい。人生には誤算がつきものとはいえ、これは最大級の誤算だった。
そんな折、「ドイツと日本、老後はどっちが快適か?」というようなテーマで、日独比較をやってみないかという話をいただいた。「よし!」と乗ったはいいものの、調べ始めたら、すぐに壁に突き当たった。
ドイツの高齢化問題も、日本に負けず劣らず深刻
高齢化は日本だけが苦しむ問題ではなく、いまや先進国共通の悩みだ。世界銀行のデータによれば、高齢化率(65歳以上の人の比率)の世界第1位が日本で27.5%、ドイツは第4位で21.7%(2018年推定値)。両国はまさに似たような問題を抱えている。ただ、当然のことながら、日本であろうが、ドイツであろうが、老後を快適にしようなどと目論むと、間違いなく次世代への負担が増える。これは、本書の重要テーマの一つでもあるが、高齢化と少子化は究極の相乗効果を発揮しつつ、どんどん国富を蝕んでいる。そして、一番その割りを食うのが若年層。それは正視するのが恐ろしいほどだ。高齢化によって国がどのくらいの困難に見舞われるかを測る指標として、「現役世代何人で、高齢者1人を支えるか」という数値がある。よく使われるのが、15〜64歳を現役世代として、その人数を65歳以上の高齢者の人数で割った数値だ。2015年の日本では、現役世代2.3人で1人の高齢者を支えていた。それが2030年には1.9人、2050年には1.4人になると推定されている。ドイツでは、この数値はそれぞれ3.1、2.2、1.8だ(労働政策研究・研修機構のデータより)。これを見ただけでも、すでに日独両国の将来設計が危うくなりかけていることはわかる。
さらに言うなら、ドイツや日本では、15歳の子供はまだ学校に通っている。だから、高齢者を支える側には入らないわけで、実際に何人の労働者が1人の高齢者を支えなければならないかという数字になると、状況はさらに厳しい。
そのうえ日本は、「失われた20年」の呪いからまだ立ち直れていない。ドイツだって、今は景気がいいけれど、2015年に大量に流入した難民の影響が、この先、国家経済にとって吉と出るか、凶と出るかは、まだ予想もつかない。いずれにしても、この状態で、産業にブレーキをかけず、社会保障や福祉をつつがなく運営するのは至難の技だ。どう罷り間違っても、「どちらが快適か?」などと言っている場合ではない。
ドイツと比べると、日本の高齢化問題がよくわかる
だが、ではどうすればいいのか? それを考えるとき、ひょっとすると、日独比較は、結構役に立つかもしれない。両国の介護や医療はベストな着地点を求めて蛇行し、今も試行錯誤している。その経過を観察すれば、ドイツの長所も見えてくるし、日本特有の問題も浮かび上がるだろう。また、ドイツの失敗に学べるならば、それもありがたい。ドイツと日本とで、大きく差が出ていることの一つに医療関係者の数がある。ドイツでは人口1000人あたりの医者の数は4.2人だが、日本は1000人あたり2.4人で、ドイツの6割以下という少なさだ。日本の医療関係者には、すでに相当の負荷がかかっている。近い将来、急激に増えていくであろう高齢者の疾病に対応できるだろうか。
また、老後の備えにも差が目立つ。高齢化・少子化で年金が目減りし始めたのは両国に共通の現象だが、ドイツは日本と違って、老後のための貯蓄が乏しい。これまで年金額が充実していたことがかえって仇になっている。しかも、老人ホームは高く、また、日本のように特養(特別養護老人ホーム)という万人のための施設もない。だから、最近、にわかに高齢者の貧困までが問題化しつつある。かといって、日本のように、高齢者のところにお金が溜まり過ぎているのも考えもの。これは、相当、景気の足を引っ張っているのではないか。
日本の老後は、実は恵まれすぎていた!
両国を比較する意義は、まだある。日本での「当たり前」が、実は、当たり前ではないということに気づく。今回、日独で比べた結果をいうなら、日本の方がドイツよりも恵まれていると感じることは多かった。とくに、医療のコストパフォーマンスが良い。なのに高齢者も高齢者予備軍も、自分たちが恵まれていることにも、そのしわ寄せが医療従事者や介護の現場にかぶさっていることにも、あまり気づいていない。中でも、一番の被害を受けることになるのが、それを経済的に支えることになる現在の若者だ。ただ、これらのアンバランスを完全に手遅れにならないうちに是正しようとするなら、それができるのは彼らではない。私たち「高齢者予備軍」が、まだ、からくも冷静な頭脳を使い、自分のことではなく、未来の社会のこととして考えていく必要がある。若者へ豊かな社会を残すために、すべきこと
老後について思い描く光景は千差万別だ。ドイツで満点なイメージは、収穫した麦が一杯に詰まった納屋だそうだ。乾いた麦の匂いには、人生の思い出が凝縮されている。夏の太陽に焼かれながら働いた日々。刈り入れの目前、嵐に心を痛めたこと、凍いてついた手。そして、収穫の感激。しかし今はすべてが過ぎ去り、時が静かに流れていく……。何とも満ち足りたイメージだ。これを日本に置き換えるなら、田んぼに干してある稲穂の列が、秋の夕日に照らされて黄金に輝く風景だろうか?しかし、収穫がたわわにあるのはいいとしても、私にはいずれもあまり理想的だとは思えない。「では、裸になった田んぼや畑はどうなるの?」と考えてしまう。再生産のための栄養さえなくなってしまった土壌から、次の豊かな収穫は期待できない。
2015年、東京で、年金の支給額の減ったことを憲法違反だとして訴えた人たちがいた。その気持はもちろんわからないわけではないが、でも、やはり自分勝手のような気がする。日本もドイツも、将来の世代は生き延びられるのだろうか?
私のドイツでの生活は、今年で36年を突破した。老人ホームはドイツでも日本でも見てきたし、実は、娘の一人は、介護士の資格(日本でいう看護師と介護士を合わせた資格)を持っている。実習は、シュトゥットガルト、神奈川県、そしてハンブルクの病院で行った。資格を取ってからは看護師としてハンブルクとロンドンの病院で働いていたが、今はそれを辞め、あるドイツのNGOで、医療保険制度からこぼれ落ちてしまっている人たちの救済に携わっている。なぜ、病院勤務を辞めたかという理由は、追い追い本書で触れていくことになるであろうドイツの病院の抱える問題と、ぴったりと重なる。
結局、本書の中身は、「快適な老後」ではなく、以上に挙げた諸々の社会的問題、そして、構造改革や思考の転換についての提案が最優先となった。早く手を打たなくては、次世代にこの豊かさを引き継ぐことができないという私の焦りを、できることなら、一人でも多くの人と共有したい。そうすれば、深刻な状況の中にも、一条の光を見出すことができるのではないかという仄かな期待を、今、私は抱いている。