世界から答えが消え去った。 混迷の時代を生きるために、 自分の頭で考えるとはどういうことかを問う
世界から答えが消え去った。「答えのない世界」とは近代のことである。臓器移植・人工授精・代理母出産・人工子宮・遺伝子治療・人工多能性幹細胞(iPS細胞)など、生物科学や医学の発展と共に、過去には不可能だった、あるいは想像さえされなかった技術を人類は手に入れようとしている。それらは近代精神が成し遂げた偉業だろう。しかし、神は存在せず、善悪は自分たちが決めるのだと悟った人間はパンドラの箱を開けてしまった。生命倫理の分野だけでなく、同性結婚・性別適合手術・近親相姦などの是非を判断する上で、近代以前であれば、聖書などの経典に依拠すれば済んだ。あるいはその解釈だけで事足りた。だが、〈正しさ〉を定める源泉は、もはや失われた。どんなに考え抜いても、人間が決める以上、その先に待つのが〈正しい世界〉である保証はない。無根拠から人間は出発するしかない。どうするのか。これが本書の問いである。
私はパリの大学で社会心理学を教えている。フランスに住む前にもヨーロッパ・中近東・アジアの各地を旅したり、技術通訳として北アフリカのアルジェリアに滞在した。還暦を迎えた私は人生の三分の二近くを外国で過ごした計算になる。家庭環境からも関心からも、フランスと私に接点はなかった。ところが不思議な偶然がいくつも重なり、想像しなかった歩みを辿っていった。ほんの小さな偶然が人の一生を左右する現実に幾度も驚かされてきた。そんな軌跡を綴りながら、異文化の中で私が考えたり感じたことを語ろう。
外国生活にはどんな意義があるのだろうか。自分の生まれ育った土地を離れ、異なる世界観を持つ人々と一緒に暮らすことで何が得られるのか。逆に何を失うのか。あるいはそのような損得勘定で考えること自体がまちがいではないか。
紆余曲折を経た後にたどり着いたフランスの学問界に対して、私は三重の意味で異邦人の位置にいる。第一に母語も文化も異なる環境に生まれ育った外国人として、フランス人とは発想の仕方が違う。第二に普通の大学ではなく、社会科学高等研究院で学際的な研究姿勢を身につけたために、社会心理学に従事する同僚と視点をかなり異にする。そして第三に、そもそも学問が私にとって異質な世界であり、私は学者になるタイプではなかった。以上三つの理由から、フランスの学問界で異邦人として、よそ者の立場から思索を紡いできた。
遠くから眺めるか近づいて凝視するかによって、世界は異なる姿を現す。外から見るか内から見るかで、同じ対象も違う意味を持つ。だから外国人の著す日本論や、海外に住む日本人の体験には意義があるだろう。しかし私がここで語りたいことは、それとは違う。異邦人という位置は外部にあるのでも内部にあるのでもない。遠くにあると同時に近いところ、そんな境界的視野に現れる世界を描いてゆこう。
本書は、二〇〇三年に現代書館から上梓した『異邦人のまなざし 在パリ社会心理学者の遊学記』の改訂版である。出版から一五年近く経ち、学問や大学に対する私の思いは少なからず変化した。新たに考えたことを加筆し、私のフランス生活を再び反省してみた。そして自伝的性格の強かった原著の内容を一般化して、考えるための道しるべとして書き直した。異邦人や少数派が果たす役割をより掘り下げ、開かれた社会の意味を考察する。それに伴い、タイトルを『答えのない世界を生きる』に変更した。大幅に書き直したので、原著の面影はほとんど残っていない。現代書館版を読んだ人にも新たな本として手にとっていただけると思う。
本書の構成を簡単に紹介しておく。第一部では、自分の頭で考えることの意味について議論する。その端緒として、勉強とは知識の蓄積であるという常識を第一章で崩す。知識を増やすのではない。壊すことの方が大切だ。慣れた思考枠を見直すのである。問いとは何か。新たな角度から考える上で矛盾が果たす役割を明らかにしよう。
常識を崩した後に、知識をどう再構成するか。第二章は、その構築プロセスに光を当てる。その際に重要な機能を担うのが型(パタン)である。そして変化や断絶を生む契機について考えよう。高校生にも読んでもらえるよう、平易な記述を心がけたが、この章では、今までに私が発表した考察の論理構造や背景を解析するので、他の章に比べると少し難しいかも知れない。
第三章では大学に視点を移し、人文・社会科学の意義について議論する。自分の頭で考えることの重要性をここでも取り上げる。そのために大学は役に立つのか。文科系学部を縮小・廃止する動きが顕著になってきた。その傾向に警鐘を鳴らし、人文学を守れと反発する識者も少なくない。
「理科系と違い、短期的な経済効果を見込めない文科系も、長期的展望に立てば、経済効果を持つ」
という主張がある。あるいは
「技術やノウハウを教える専門学校とは異なり、価値を創造する場である大学に実利など必要ない」
という意見もある。本書の立場はどちらとも違う。経済効果や価値を重視する見解は原理的な誤りを犯している。正しいとは何を意味するのか。そこから考え直す必要がある。
最初二章の内容は前著『社会心理学講義』(筑摩選書、二〇一三年)と部分的に重複している。考えるためのヒントというテーマが共通するので、繰り返しを避けられなかった。新しい材料を多く追加したし、練り直した論点も少なくない。だが、基本的な議論は削れない。
重複の理由は、私にとって書く意味にもつながっている。本書の叙述が進むにつれて明らかになるが、私は今までずっと一つのことしか追ってこなかった。異文化受容・集団同一性・自由・責任・裁判・正義・宗教・迷信・イデオロギーなど、具体的テーマは変遷しても、その核になる視点はずっと一貫している。そのため、最低限の論点を確認せずには先に進めない。特に、常識に反する主張を頻繁にする私の場合、前提を明確にしておかないと誤読を誘ってしまう。それまでに上梓した拙著全体を読者すべてが知っているわけではないので、不可欠な基礎的事項は繰り返さざるをえない。新しい材料に替えるべく努力はしたが、私の知識や能力では無理な場合が少なくなかった。読者の理解を乞う。
第一部で示す考えに至った背景を第二部で明らかにする。自らの実存に無関係なテーマで人文学の研究はできない。どう学び、考えるか。それは生きる姿勢を問い糺すことに他ならない。第四章では先ず、私が日本を離れ、アルジェリア滞在を経てフランスに定住するまでの道程を綴る。平凡な若者が様々な偶然や困難に出逢い、そのつど真摯に立ち向かってきた。参考書やハウツー本が教えるノウハウには限界がある。学問は頭だけでするのではない。身体の声、魂の叫びが背景にある。
第五章では、私がフランスで学び、大学に就職した経緯を辿る。入学試験どころか、授業も進級試験もない、社会科学高等研究院という風変わりな学校で私は一〇年間学んだ。指導教官と相談しながら論文を書くだけの時間。このような自由は何を意味するのか。そもそも大学は何を学生に教えるのか。フランスと日本の大学はどこが違うのか。学位の内 情を明らかにするとともに、フランスの大学制度や教員への就職事情を分析しよう。
第六章では、私が学問界の周辺に留まった事情に触れながらも、私個人の枠を超えて少数派の存在意義を問い直す。頭だけでは考えられないし、学べない。考えるとは、学ぶとは、感情に抗いながら身体全体を投入する運動である。グローバル人材や国際人がしばしば評価される。だが、それは情報の蓄積に価値を置く常識の踏襲にすぎない。そこがすでに誤りの元である。加算的アプローチでは思考枠を壊せない。逆に、慣れた情報や考え方を疑問視する引き算に注目しよう。そこに異邦人の役割がある。
終章では異邦人の葛藤に的を絞る。日本人は明治以降、ずっと西洋を手本にしてきた。今も比較の対象は欧米だ。そこでも加算的発想に囚われている。私はこの現象を〈名誉白人症候群〉と呼んできた。各分野に老舗があり、それを目指して追いつき追い越せという、主流追従の姿勢である。どうしたら二番煎じのアプローチを脱して、自分自身を取り戻せるのか。周辺性・少数派性の意義を正面から見つめ、異質性という埋もれた金脈を掘り起こそう。
「答えのない世界に生きる」
これは、混沌とする社会に生きながらも答えを探せというメッセージではない。
画一的で個性がないとは、日本人自身が繰り返し反省してきた自己像だ。そして、その反動として異端が称揚される。異端を勧める本が巷に溢れる。だが、その異端とは何なのか。犯罪者や精神障害者を含む、すべての逸脱者を肯定する覚悟があるのか。
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
SMAPの歌、『世界に一つだけの花』(作詞作曲・槇原敬之)の最後に出てくる有名なフレーズだ。この考えを甘いとか、自己満足だと笑うこともできる。しかし、ここに大切なものが隠れていると私は思う。異端を勧める本が認めるのは、独創性としてすでに受け入れられた価値観にすぎない。このような馴致された異端を持ち上げても何も変わらない。常識をなぞっているだけだ。
日本人の画一性の原因は、よく言われるような主体性の欠如ではない。移り変わりが激しい流行も、単に他人を模倣するのではなく、本当に素敵だと感じるから、自主的に取り入れているのだろう。だが、同じ〈良いもの〉に皆が引きつけられ、結局、社会全体が均一化してしまう。異端の称揚も根は同じだ。だから、「独創」的な生き方を皆が真似をし、「独創」的な人間が街を埋め尽くす。
「正しい世界に近づこう」
「社会を少しでも良くしたい」
この常識がそもそも問題だ。善意の蔭に潜む罠を暴こう。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」
敵は我々自身だ。