辞書作り一筋に生きた「職人」編集者のメモワール
二〇一七年二月十日に、私は勤めていた出版社を定年で退職した。私が出版の世界に飛び込んだのは一九八〇年三月十日だったので、正確には三十六年十一か月この世界にいたことになる。しかもその間に手がけてきたのは、ほとんどが辞書の編集だった。そして退職した今も、多少なりとも辞書とのかかわりは続いている。このようなわけであるから、本書の書名を『辞書編集、三十七年』としたのも、決してはったりではない。
三十七年間は、ありきたりな表現だが、あっという間の出来事だった。しかもその間に、人さまに誇れるような大きな仕事を成し遂げたわけではない。波瀾万丈の人生だったわけでもない。ただ一つだけ他の人と異なることがあるとしたら、その年月をほぼすべて辞書編集者として過ごしてきたということだけなのである。
辞書と名のつく書籍を刊行している出版社は数多くある。だが、そのような出版社でも、国語辞典一筋の編集者はあまりいないかもしれない。そもそも国語だけでなく外国語を含めても、私の知るかぎり辞書専門の編集者はそう多くない。
そうであるなら、このような希少な存在かもしれない私が、辞書編集者として、日本語とどのようにかかわってきたのか書き残しておくのも、少しは意味があるのではないか。そう考えたのが、本書執筆の動機である。
『日本国語大辞典』から「変わり種」の辞書まで
もとより、私が正統派の辞書編集者だったかどうかはよくわからない。『現代国語例解辞典』初版(一九八五年)では、肩書きのない編集者としてであったが、企画の段階から刊行まで、すべてをまとめ上げるということはした。『日本国語大辞典(日国)』第二版(二〇〇〇~〇二年)では、今度は編集長として、この辞典の骨格の部分である用例が適切に引用されているかどうかの判断を主に行った。『日国』は、一九七二~七六年(昭和四十七~五十一年)に初版が刊行され、第二版では項目数は五十万、用例の数も聖徳太子の時代から昭和に至る約三万点の文献から引用した百万になって、国内だけでなく海外からも高く評価されている日本最大の国語辞典である。
このようにオーソドックスな辞書の編集も確かに行ってはいるが、変化球とも言えるような辞書も数多く手がけている。私の経験自体、他の辞書編集者から見ると、かなり特殊なものだったのかもしれない。そのようなわけで、辞書とはどういうものか学問的にお知りになりたいかたには、本書はあまり役に立たないかもしれない。そのことは最初にお断りしておく。
辞書作りの現場の歓びと哀しみ
本書ではまず、まさか辞書の編集者になろうなどとは思ってもみなかった私が、なぜ辞書編集の世界に飛び込むことになったのか、言ってみれば私自身の辞書編集者前史から書き起こすことにした。今にして思えば、他に選択肢がなく、かなり受け身の人生だったような気がする〔序章〕。辞書編集者の仕事は、ひたすらゲラ(校正刷り)を読むことである。私もいきなり、『国語大辞典』(一九八一年)のゲラを読むことからやらされた。ゲラ読みとは、ただ文字を追いかけているわけではない。書かれた内容すべてに対して、本当に正しいのかと疑問を持ちながら読んでいくのである。これによって辞書編集者は、とても懐疑的な性格になっていく〔第一章〕。
入社してすぐに担当することになった『国語大辞典』と、企画の段階から手がけた記念すべき私の辞書第一作目である『現代国語例解辞典』(一九八五年)とによって、徐々に辞書編集者と名乗っても恥ずかしくないようになった気がする。
特に『現代国語例解辞典』では、編集長ではなかったが、辞書全体を統括するような役割を任されたので、辞書編集の面白さを知るきっかけとなった。ことばを説明するという枠組みさえ逸脱しなければ、辞書編集はかなり自分の思い通りにできることを知ったのである。『現代国語例解辞典』の特徴とした、類語の意味の違いを説明するための表組や、随所に設けたことばに関する補足説明などはまさにそれであった〔第二章〕。
こうして、私は辞書編集の仕事にどんどんのめり込むようになった。だがその反面、一般の人にとって辞書とは、堅苦しく無味乾燥な内容だというイメージが強いのではないかという、もどかしい思いも抱くようになった。そんなイメージをなんとか崩したいと思って、個性的、かつ極めて趣味的な辞書も企画していった。『使い方の分かる類語例解辞典』(一九九四年)、『日本語便利辞典』(二〇〇四年)、『美しい日本語の辞典』(二〇〇六年)などである〔第三章〕。
私が辞書の世界に長年いられたのは、第一線にいる日本語や文学の研究者、法律家などから直接教えを受けたからだと感じている。このようなかたがたから頻繁にお話をうかがえたのは、編集者冥利に尽きると思う。ただ、楽しい付き合いばかりではなく、いつしか関係が悪くなっていったかたもいたのだが〔第四章〕。
辞書の編集をしていて、なぜか辞書は塀の内側や闇社会と、ことばを通じてだが関係が深いと感じていた。そこでその関係をまとめてみた。刑務所の中から殺人事件の被告人が自分の裁判の証拠としたいと、編集部に語釈の変更を直接訴えてきたこともあったのである〔第五章〕。
ある地域だけで使われる方言は、通常の国語辞典ではほとんど取り上げられることはない。ところが、私は幸運にも『日国』を通じて方言と深いかかわりを持つことができた。四国の徳島では、方言研究者がインフォーマント(方言話者)に対して実際にどのような調査を行っているのか直接触れる機会もあった。方言もれっきとした日本語である。辞書の中にその方言をどのように取り込んでいくかは、私にとって大きなテーマなのである〔第六章〕。
ことばの意味を記述するには、実際にそのことばが使われている文献例がなければ何もできない。私は『日国』第二版で、三万にも及ぶ文献から採取した用例と深くかかわった。これらの用例はそのまま引用できるものもあれば、「布団をしく」に対する「布団をひく」のような、いわゆる誤用とされる用例までさまざまである。
私は特にこうした誤用とされる用例も多く採集している。なぜわざわざそのようなことをしているのかというと、私なりの考えがあってのことである。もちろんそれは、書き手を誹謗中傷しようということではない〔第七章〕。
辞書は編集にかかわる人間だけで作り上げているわけではない。読者から寄せられる指摘や質問、意見などによっても内容を検討することがあるし、それによって内容が進化することもある。私も、お味噌の効用を調べて「道三湯」なる飲み物に行き着いた老舗の味噌会社の元社長さんや、「一応」と「とにかく」のような類義語の意味の違いが気になって仕方がないという、ちょっと不思議な質問をしてくる人、中国の故事について質問してきた中国の大学生など、実際にいろいろな読者との交流があった〔第八章〕。
日本の辞書は内容だけでなく、印刷や製本、製紙の技術も素晴らしいというのが私の実感である。辞書は改訂版のたびにページ数が増えていくのに、さほど厚さを増していないことにお気づきだろうか。これらはすべて日本の優れた技術力による。そのことをぜひ強調しておきたかった〔第九章〕。
教育学者の深谷圭助先生が開発した「辞書引き学習」を広める活動は、私が定年後の今も活動を続けている大きなテーマの一つである。在職中に立ち上げたNPO法人こども・ことば研究所では、全国各地の小学校や寺社などで辞書引きの学習会を開催している。この学習会に子どもと一緒に参加した保護者や教師の、この子たちにこんな集中力があったなんて初めて知りました、という声に支えられて活動を続けている〔第十章〕。
現在私は、ことばの面白さと辞書の楽しさを伝えたいと考え、さまざまな媒体を使って発信を続けている。これは在職中から始めたことで、辞書編集者がなぜこのようなことをしているのかというと、辞書では本当のことばの面白さは伝えられないという思いがあったからである。個人的にそのような活動を始めたため、在職中は勤め先と多少摩擦もあった。だが、この活動もまた、私の今後の大きなテーマの一つなのである〔第十一章〕。
まずは、一辞書編集者が日本語とどのように向き合い、それをどのようにして辞書という具体的な形に仕上げていったかを、本書を通じて少しでもお伝えできれば幸いである。