書評

『一階でも二階でもない夜 - 回送電車II』(中央公論新社)

  • 2019/03/10
一階でも二階でもない夜 - 回送電車II / 堀江 敏幸
一階でも二階でもない夜 - 回送電車II
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • 発売日:2009-12-22
  • ISBN-10:4122052432
  • ISBN-13:978-4122052437
内容紹介:
須賀敦子、北園克衛ら7人のポルトレ、10年ぶりのフランス長期滞在で感じたこと、なにげない日常のなかに見出した秘蹟の数々…長短さまざまな54篇を収録した散文集。評論、小説、エッセイ等の諸領域を横断する“回送電車”第2弾。
“美しい日本語”といったって、主体が変われば美の基準なんてさまざまに変容するのだから、堀江敏幸の一連の作品をそんな手垢にまみれた決まり文句で讃えたりはしたくない。それはわたしにとって、いつも“届く”言葉たちなのだ。堀江さんの文章は、自分ですら忘れていたような記憶や気持ちを呼び覚ましてくれる。届いた言葉たちは、わたしの内的世界と静かに交歓しあい、やがて新たな光景がそこに生まれる。この作家の言葉にはそんな力がある。そして、今、力を持たない言葉ばかりが世間を跋扈(ばっこ)し、日本語とそれが指し示す現象や風景や人心を貧しくさせる一方なのである。

〈ながいあいだその存在すら知られていなかった伏流が、とつぜん澄み切った水を溢れさせたとでもいうように、ただ散文としか名付けようのない気韻のある文章〉。『ミラノ 霧の風景』などの著作で知られる須賀敦子さんが亡くなった時に寄せた追悼文の中で、堀江さんは須賀さんの文章の魅力についてこう語っている。しかし、それは同時に氏自身の“声”の性質をも指してはいないだろうか。〈明敏な知性と感性が融合してはじめてかたちをなす〉〈無駄がなく喚起力のつよい、生きた言葉のつらなり〉という須賀さんへの賛辞はまさに、堀江敏幸の文章に接した際、わたしが覚える仰望(ぎょうぼう)の念にひどく近いのである。

この、ようやく四十路という若さとはとても思えない、陰影に富んだ端正な佇(たたず)まいの言葉を紡ぐ作家は、本書のタイトルそのままに、小説でもエッセイでも書評でもない、ジャンル分けの難しい作品を書くことがしばしばだ。堀江さんはその宙ぶらりんの場所から、読者を他の誰か、他の何処かへ、慎重に手渡そうと試みる。たとえば、空調装置のおかげで〈ぬるま湯を入れたビニール袋を首筋にそっと押しつけられるみたいな、いやだけれどその季節にしか味わうことのできない感触〉を失いつつあるわたしたちを、永井荷風『つゆのあとさき』の世界へ手渡す。フランスの詩人ジャムが親友の死を悼んで詠んだ詩を紹介する一文では、死を受け入れず、僕の村においでよと呼びかけるジャムの〈のどが渇いてゐないか?/此處に井戸水と葡萄酒があるよ。〉という言葉によって、わたしたちを自分の友に抱く温かい気持ちへと運んでくれるのだ。

堀江敏幸から他の作家へ、此処(ここ)から何処かへ、今からいつかへ、自分から誰かへ――。静と動、新しさと懐かしさ、みずみずしさと老成、相反しあうふたつのものが共にある堀江さんの奥行き深い慎ましやかな文章は、「オレが」「わたしが」と自己主張ばかり激しい得手勝手な言葉とは違って、常に読者に届く。その届いた言葉によって、わたしたちはまた別の言葉へと手渡される。

それは、開かれた言葉のリレー。長短さまざま五四編が収められた本書は、その一番走者・堀江敏幸の魅力を味わうのに最適な一冊だ。できうる限りゆっくりと味わってほしい。
一階でも二階でもない夜 - 回送電車II / 堀江 敏幸
一階でも二階でもない夜 - 回送電車II
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • 発売日:2009-12-22
  • ISBN-10:4122052432
  • ISBN-13:978-4122052437
内容紹介:
須賀敦子、北園克衛ら7人のポルトレ、10年ぶりのフランス長期滞在で感じたこと、なにげない日常のなかに見出した秘蹟の数々…長短さまざまな54篇を収録した散文集。評論、小説、エッセイ等の諸領域を横断する“回送電車”第2弾。

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初出メディア

アッティーバ(終刊)

アッティーバ(終刊) 2004年9月号

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