書評

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(朝日出版社)

  • 2020/08/18
人格との関係からみたパラノイア性精神病 / ジャック・ラカン
人格との関係からみたパラノイア性精神病
  • 著者:ジャック・ラカン
  • 翻訳:宮本忠雄, 関忠盛
  • 出版社:朝日出版社
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:1987-03-00
  • ISBN-10:4255870012
  • ISBN-13:978-4255870014
内容紹介:
パラノイアとは、"内的原因に発し、一貫した経過を示しつつ緩慢に発展する持続的で揺るぎない妄想体系で、その際、思考、意志および行動における明晰さと秩序が完全に保持されている疾患"である。精神病の理念型とでもいうべきパラノイアの問題へと気鋭の精神科医ラカンの関心が向かい、一挙に研究の飛躍をもたらしたのが1932年刊の本書である。
いま比喩的にいってみると、フロイトのパラノイアの概念は映像的だ。クレッチマーのパラノイアの概念は言語的だ。ラカンのパラノイア概念はどうだろう? この本を読んだ印象でいえば、映画的であるよりも文学的であり、映像的よりも言語的に傾いているとおもえる。ただラカンは後からきたものの負い目で、パラノイア概念の歴史をはじめてきちんと整理し、なぜパラノイアの症候が、映像的な要素を混合しているようにみえるのか、そしてどこまで純粋にパラノイアという概念を取り出して確定できるものなのか、注意深く検討する役目を果たすことになっている。

この本はラカンの学位論文だと献辞のなかに自身で記しているが、読んだ印象からいえば、初期のうちから大家の風貌をもっていることに驚かされる。またそれと同時に、後年にもう一度フロイトに回帰し、フロイトの古典的な精神分析学の基本概念を、あたかも古典力学にたいする量子力学のように、現代的な概念に組みかえた後期ラカンに比べると、まだたくさんの混濁物を含んでいて、澄明な鋭さが不足している。そして、射程が短すぎてとどかないもどかしさを混じえた印象をうける。

よく知られているようにパラノイアの概念をわたしたちが現在もっている病像に造りあげたのは、フロイトの古典的な不朽の論文「嫉妬・パラノイア・同性愛における二・三の神経症メカニズムについて」と「自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析学的考察」だった。このふたつの論文を介して、フロイトはパラノイアについての明晰で驚嘆すべき主要図式(Haupt Form)を取り出した。すべてパラノイアの妄想は「私(=一人の男性)が彼(=他の一人の男性)を愛する」という同性愛的な命題が、矛盾にさらされたときに発生するというのがフロイトの図式だった。

その図式を原型にとれば、追跡妄想は「私は彼を愛さない——いや、私は彼を憎む」という逆倒した命題が「彼」に投射されたもので、「私」と妄想のなかで追跡するものは、かならずもとは「私」が愛し、いまは憎しみとなった同性の「彼」か、その代理だということになる。また恋愛妄想(エロスマニー)は「私は彼(同性)を愛しているのではない——私は彼女(異性)を愛しているのだ」というように、愛情対象が彼(同性)から彼女(異性)に移動したことを意味する。これが投射されて「彼女が私を愛していることに私は気づいている」という思い込みの妄想に発展する。嫉妬妄想は「彼(同性)を愛しているのは私ではない——いや彼女(異性)が彼を愛しているのだ」という図式になり、彼女(異性)は私が無意識に愛しているすべての彼(同性)との関係を疑われ嫉妬されることになる。これらのパラノイア性の妄想が、かならず同性愛的な機制(メカニズム)の転倒や、移動や、性転移によって成り立つという見地は、フロイトの見出した画期的な公理であった。そしてフロイトの考えのうちもうひとつ重要とおもわれることがあった。パラノイアの症状を形成する機制(メカニズム)が、内的な知覚である「感情」が外界から与えられた知覚で置き換えられたものだという考え方だ。パラノイアの妄想はたんに解釈の偏倚が意味論的に延びていって造られるのではなく、幻覚あるいは幻覚とはいわないまでも、あるおもいこまれた映像があって、それに導かれた言語が、解釈の妄想体系をつくるのではないかと疑われるところがある。わたしたちにはパラノイアの妄想と、分裂性あるいは躁うつ性の幻覚症状とが区別ができないとおもえる箇所がどうしてもあるようにおもわれる。またここがパラノイア性の妄想を、映像的なものに近づけるか、言語規範的なものに近づけるか、といった理解のずれを生みだす箇所のようにみなされる点だといえよう。

この本の著者ラカンも、そこを検討している。まずパラノイアが自己内省力の低下からくる論理の狭窄を自己中心的な自我の肥大から成る体質的性格因子に由来するというフランス学派(セリューやジャネたち)の見地と、いまそうではなく、生活状況がその人の能力を越えて険しくなったため、しばしば倫理的な屈辱や性的な屈辱をうけて情動をゆさぶられたとき、その困難な現実を拒んだり、過剰に、故意に、自己に集約してくる悪意のせいにしたり、他者の無意識な性的な行動をすべて自分にたいする意図的な行為とみたりする反応性の情動因子に由来するものとみなすドイツ学派(クレッチマーやブロイラーたち)の見地とを検討して、ラカン自身を心因発生論としてそれらの結合のうえに立たせようとしている。そしてその上で、躁うつ病の潜在的な気分の障害や、分裂病の精神的乖離と見まがうために、これらの精神病の器質的な障害の中に、パラノイアを組み入れてしまう考え方の基盤を検討している。躁うつ病の躁状態における宗教や政治的な改革や発明の妄想とパラノイアの誇大妄想とは区別が難しいし、うつ状態の被害妄想とパラノイアの被害妄想は区別し難い。また、パラノイア発現より以前に分裂病のような症状が出現する事実がおおいことや、パラノイアの症状の過程で、幻覚に似たシューブが発現することや、パラノイアが変形して分裂症状態に接続されることがありうること、なども、事実として疑いないようにみえる。ただパラノイアという疾病領域を確立しようとすれば、パラノイアの妄想が、病前の人格との断絶なしにひと続きとして発現されること、またパラノイアの症状が続いても、痴呆性の衰弱は起らないこと、また総体的には強い安定した情動性をもつことで、分裂病と区別されることがいえる。しかしこのことは見方を変えればパラノイアが分裂病の症状ととても近縁関係にあることを語っているともかんがえられる。

こういった学説を検討し、紹介しながら、ラカンは次第にパラノイアの確からしさの領域を、内的言語の過程が発現して妄想となった解釈妄想症の範囲に縮小していくかのように感ぜられる。わたしたちが日常いちばん多く出遭うパラノイア症状は、フロイトのいう内的な情動の発現である「感情」が幻覚に類似してあらわれた妄想体系であるようにおもわれる。そのためラカンがパラノイアの確からしい病像をもとめて、領域を次第にしぼりこんでゆき、しかも言語解釈の妄想症に近よっていくようにみえるのは、何となく浮かない感じを伴わせる。

フロイトはパラノイアの概念を確立するために症例シュレーバーの自伝的手記を分析した。そして要約すれば「世界を救済し、失われた幸福を再びこの世にもたらす自分の使命を実現するためには、あらかじめ、じぶんが男性から女性に性を転換していなければならない」というシュレーバーの妄想体系の分析から、パラノイア妄想の根底には「私(一人の男性)が、彼(同性)を愛する」あるいは女性のばあい「私(一人の女性)が彼女(同性)を愛する」という同性愛の願望が原型としてあるという、画期的な発見を導いた。

ラカンは《症例エメ》を二年近く観察し調査し、その治癒の過程に立ち会い、「自罰のパラノイア」という概念を新しく確立している。この本の圧巻は《症例エメ》を分析している箇所に帰せられる。

《症例エメ》が犯した行為は、当時女優として知られていたZ夫人を、出演者専用の出入口で待ち伏せて刃物で斬りつけ、殺害しようとして未遂におわったことだった。なぜこの犯行に及んだかについて《症例エメ》は、「Z夫人がじぶんの息子を殺そうとしているからだ」と説明する。《症例エメ》がどうしてこういう妄想確信をもったかについて「息子がおびやかされ殺害されるのはどうしてかを考えながら、事務所で仕事をしていると、同僚たちがZ夫人について喋りあっているのをきいた。そのとき私と息子を恨んでいるのはZ夫人だと判ったのだ」と説明する。ではなぜすぐにZ夫人がエメと息子の迫害者だという妄想を増殖させたのか。「以前に事務所で、みんながZ夫人を気品がある女優だというのに、じぶんだけが反対して、あれは売春婦だと罵ったことがあるので、彼女から恨まれる羽目になっていた」という被害妄想を述べる。エメはZ夫人の出演した芝居を一回、映画を一回見たことがあるだけで、いわば名を知られた女優という以外のつながりは何もないようにみえた。ではなぜ《症例エメ》はZ夫人に斬りつけるほど心を切迫させ、事態を追いつめていったのだろうか。ラカンはさらに《症例エメ》に肉迫する。新聞などの記事が、じぶんにたいする当てこすりや、悪口のように読めてしまう関係敏感性の状態にあったある日、エメは新聞で「母親が口が悪く破廉恥だから、彼女の息子は殺されるところだったし、彼女も復讐を受けるだろう」という記事を読んで自分のことだと妄想する。ほんとうにそう書かれていたかどうかは、別のことだ。たまたまその頃、女優Z夫人がエメの住居のすぐ近くの劇場へ出演するためにやってくることがわかった。エメは動転し、Z夫人を殺さなければ、じぶんと子供が殺されると思い込み、出演者の出入口に待ち伏せてZ夫人に斬りつけることになる。

《症例エメ》は、わたしたちの周囲に、いつでも一人、ふたりは見つけられる女性とおなじだ。世間的に周知の女性(同性)で、いかにも社会的に華やかそうにみえる者を、じぶんを迫害したり、非難したり、当てこする言動をしたりする加害者的な人物として短絡し、関係づけ、その世間に知られた女性が表現していることは、すべてじぶんにかかわることだという妄想をつくりあげてゆく。もちろんエメが男性だったとしたら、おなじような位置の男性(同性)が愛情や執着や憎悪や排撃の両価性にさらされる。《症例エメ》は、過去に英国の皇太子を恋愛妄想の対象に撰んで、手紙を寄せたことがある。そしてZ夫人を襲った後も、妄想は崩壊することなく、誰も自分を判ってくれないと英国皇太子あての手紙を書いて、Z夫人のような世間に知られた女優や女流の作家が、じぶんを迫害していると訴えたりする。

だがラカンが詳細に記述しているように《症例エメ》は、こういういわば「華やかな」誰にでもわかるパラノイアの症候を明らさまにする以前に、迫害妄想の傾向をもち、不安で世間を嫌い閉じこもりがちの母親のもとで育ち、思春期に入りかけの頃には、どんな職業にも適合してゆけない苦悩と孤独と倫理的な絶望感と、まったくそれを裏切らないそういう自分のままで苦しい環境から離脱できた姿を容認する誇大な熱望とにさいなまれる体験をしている。そこから自己の過大評価、高慢、つよい虚栄心、また母親の内閉と不安から幼児体験として受けとった疑心、易動性の興奮などの性格を形成してきたことがわかる。

ラカンはこれを一方で先天的なリビドー・エネルギーの備給の構えの衰弱と欠陥に、他方で生活上に表われた易動性の情動性格に帰着させている。そしていってみれば格別に新味のある見解を加えたわけではなく、従来の諸解説を統合して、その上にパラノイアの概念を据え直したといってもよい。ではラカンがパラノイアにつけ加えたことは何もないのだろうか。ラカンは《症例エメ》がZ夫人に斬りつけて、有罪となり収監されたあと二十日ばかりたって、Z夫人はじぶんと子供を迫害したのではなかったかも知れないし、じぶんも彼女から迫害されたのではなかったかも知れぬという寛解した考えを開陳し、妄想が薄れたことに着目する。それは「彼女自身が(法の前で有罪とされることで)、自分を打ちのめしたということであり、また矛盾したことに、その時だけ彼女は熱情的な憎悪の満足を特徴づける感情的な安らぎ(涙)と妄想の突然の消退とを体験した」ことを意味する。ラカンはこの現象からかれの獲得した自罰パラノイアの概念が広範な射程にわたって妥当するような症候の領域がありうることを確定したことになる。なぜ自罰なのか。《症例エメ》は、じぶんにたいする迫害者(同性)たちは《母親(じぶん)を苦しめるために》じぶんの子供をおびやかすのだという発想をとる。《なぜ、しかしなぜあなたは子供がおびやかされると考えたのか?》。衝動的に彼女《症例エメ》は答える。《私を罰するためです》。もっとエメは自罰的なエネルギー備給をつきつめている。「けれどなぜ(私を罰するため)と考えたのか」、答え「私がじぶんの使命を果さなかったからです」。この答え方は自罰的であり《症例エメ》は言い直すことができる。《私の敵が私の使命におびやかされたと感じたからです……》というように。

《症例エメ》は子供への授乳期に、外界の疎隔感、既視感、考想察知感など、産褥性の夢遊状態に陥り、姉に子供の養育をゆだね、姉から屈辱と良心のとがめを強いられ、あげくに姉に「子供を奪われた」という感じに襲われたことがある。また友人のNのC嬢を介して叔母の隣人だったZ夫人の名前とその世間的な高名を知り、また母の学校時代の知り合いサラ・ベルナールの名前を初めて耳にし、これらの人々は大なり小なり《症例エメ》の、同性の加害者群に加わることになる。わたしたちは、ほんとうはパラノイア病者が(一般に精神の病者が)なぜ現実にはじぶんに無関係な、世間的には知名の人士を撰んで、加害者の列にいれるのかについては、人間存在の無限の悲哀に誘われ、「なぜ」、「なぜ」という問いを発しながら、暗い奈落にはいりこんでゆくような無類の感じに襲われる。たくさんの問いを発し、たくさんの答えをだしてみたい気がする。ラカンは、これら女性迫害者に擬せられた人物たちのうち、姉やNのC嬢のような身近な者は現実の存在による情動的な力の役割をもち、世間的に高名な女優や女流文学者たちは、恣意的振舞いのできる社会的力の象徴として、憧れと憎悪の両価的な意味で表象的価値を表わすものだと述べている。

ラカンは《症例エメ》の妄想形成の機制(メカニズム)と人格(性格)的な特性のあいだに見出される同一性を、精神の衰弱者と敏感者の特性である過敏関係感、強迫性、倫理的不安など、《自責者》に特有のタイプとして見つけだしている。フロイトの理論ではこの自罰の形成は超自我の分割期に対応し、病的に固着されたばあい、リビドーの一部は両親から自己愛の方向に二次的に再合体される。また超自我の強大さによる自罰リビドーは、兄弟や姉妹への幼児同性愛的固着へむかう。そしてラカンはフロイトがあらゆるパラノイアのなかに見つけだした同性愛的な機制(メカニズム)を、エメとエメの女迫害者たちの間に見出す。

この本に開陳されたラカンのパラノイアの分析の大筋に触れるように、いままで歩いてきた。わたしの感想は、最初にもっていたパラノイアについての疑問は、すこしも氷解しないで最後にも残ったままだったが、これほど総合的なパラノイア分析の本に出遭ったことはなかった、ということに尽きている。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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人格との関係からみたパラノイア性精神病 / ジャック・ラカン
人格との関係からみたパラノイア性精神病
  • 著者:ジャック・ラカン
  • 翻訳:宮本忠雄, 関忠盛
  • 出版社:朝日出版社
  • 装丁:単行本(430ページ)
  • 発売日:1987-03-00
  • ISBN-10:4255870012
  • ISBN-13:978-4255870014
内容紹介:
パラノイアとは、"内的原因に発し、一貫した経過を示しつつ緩慢に発展する持続的で揺るぎない妄想体系で、その際、思考、意志および行動における明晰さと秩序が完全に保持されている疾患"である。精神病の理念型とでもいうべきパラノイアの問題へと気鋭の精神科医ラカンの関心が向かい、一挙に研究の飛躍をもたらしたのが1932年刊の本書である。

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マリ・クレール

マリ・クレール 1987年6月

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