書評

『邪な人々の昔の道』(法政大学出版局)

  • 2021/12/25
邪な人々の昔の道 / ルネ・ジラール
邪な人々の昔の道
  • 著者:ルネ・ジラール
  • 翻訳:小池 健男
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(262ページ)
  • 発売日:1989-05-00
  • ISBN-10:4588002678
  • ISBN-13:978-4588002670
内容紹介:
全知全能のはずの神が創ったこの世になぜ悪が存在し、人間がそれによってなぜ苦しまねばならないのか。前著『暴力と聖なるもの』『世の初めから隠されていること』で鮮明にされたテーマをさらに展開・深化させ、旧約の問題の書「ヨブ記」の徹底的読解を試み、暴力と犠牲と悪のメカニズムを解き明かす。
やかましいことにいっさい触れないでいえば、旧約聖書のいちばんのかなめは、ヨブ記と詩篇にあるといえよう。そしてもっと勝手なことを言ってみれば、ヨブ記の主人公のヨブの絶望的ともいえる神とじぶんの宿命にたいする哀訴は、詩篇のダビデの唱う歌の響きを介して新約書の主人公イエスのエリ・エリ・レマ・サバクタニ(神よ神よ、どうしてわたしを見捨てたのか)という絶望につながる。そう思いこんでゆくと、ヨブ記はユダヤ教、キリスト教の神と人とのかかわりあいを語るいちばん見事な理念の記述だということになる。ヨブ記の理解についていえば、わたしはシモーヌ・ヴェイユの解釈がいちばん好きだ。ヴェイユによれば神は善い意志や善い振舞いに救済をむくい、悪い意志や悪い振舞いには罰をむくいるといったようなありきたりの公正さなどもっていない。善い意志や善い振舞いの人間を、無惨に冷酷に、まるで自然の暴風雨のように打ちのめし、叩きつけることもあれば、悪い意志や悪い振舞いの者を、幸福にし、財を与え、富と繁栄を得させることもある。およそ人間がかんがえる範囲の禍福や善悪などは歯牙にもかけず、じぶんの意志を圧しつけ、実現させ、情や用捨などまったくない振舞いをするものだ。ヨブ記のヨブは、無垢な正しい人物で、神を畏れ、悪をいとい、ひとをいたわり、よく働き、家は富み栄えている。神はなぜか理不尽にもヨブを試みる誘惑にかられ、サタンを教唆してつぎつぎにヨブに災厄を課して打ちのめす。まず盗賊が襲って飼牛を奪い、牧童を殺してしまう。つぎに天から神の火がふって、羊や羊飼いが焼け死ぬ。らくだの群と生活していた牧童が殺される。ヨブの長男の家に大風が吹きつけ、家は倒れ、ヨブの子供たちは男も女も不慮の死を遂げる。だがヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」といい、神を非難しようとしない。そこでサタンはヨブの身体を傷めれば神を呪うにちがいないといい、ヨブの頭のてっぺんから足の裏まで皮膚病にかからせる。ヨブは苦痛のあまり、身体じゅうをかきむしり、泣き、衣をひき裂き、地面をはいずりまわって苦しむが、神を呪う言葉を吐かない。ただヨブはじぶんが出生したということと、死ぬことがゆるされないことを嘆き呪うだけだ。ヴェイユによればヨブは神が自然とおなじように苛酷で不公平で、人間の善と悪など顧慮したり区別したりせずに、一様に打ちのめしたり、破滅させてしまったりする存在だということを充分に認識しており、またそれを識りながらなお神への呪いを吐かない。だから新約書の主人公イエスよりも偉大なのだ。ヴェイユにとって神はほとんど不公平な、苛酷な〈自然〉というのにひとしいとみなされている。

ところでこの本の著者ジラールにとってはヨブのうけたこれでもかこれでもかというような、苛酷で不公平な受難の苦痛は、偉大な神への信仰と信頼の物語につながるわけではない。「偉い者」や「専横な者」や「栄光にかがやく者」、「世評の高い者」などをとくに襲うような、集団的な暴力とか、集団によるひきずりおろしの現象のひとつなのだ。こういう人物は、いままで傲りたかぶっていた存在であり、ひとの上に君臨して威張っている。いまそれに、ばちが当ったので、ごうごうたる非難のなかで沈没してしまうのは、神罰てき面で、大衆のほうからみれば、ざまをみろということになる。この本の著者の言葉をかりれば「神と大衆の一致点を見事に示唆している」ので、偉い人を打ち倒すのは神で、そのうえ「踏みにじる」のは大衆だということになる。倒れた偉い人のあとには、またべつの偉いさんが後釜につき、大衆はそれを崇拝する。だがしばらくたつと、おなじ大衆がこの偉いさんをひきずりおろし、踏みにじる。神の意志で復讐され、罰がくだったということなのだ。この本の著者ジラールは、ヨブが偉い人の条件に叶っているという。羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百ぴき、雌ロバ五百頭の財産があり、たくさんの使用人をもった富豪だとヨブ記に述べられている。そしてヨブは神をうやまう無垢な正しい人で、衆望を担い、ひとの頭に立つ条件で欠けたところがない。ウツの地方の人々はヨブを尊敬しているだろう。この本の著者ジラールには、これこそ、やがて犠牲の山羊として大衆から蹴おとされ、踏みにじられ「ひとり対全員」の指弾の対象になる人物としてふさわしい条件なのだ。神はこういう人物を試み、傷めつけることをサタンに許し、サタンは大衆を焚きつけて、こういう人物を失墜させる。ヨブ記は大衆が焚きつけられるところは、間接的にしか暗示していないが、神やサタンが、ヨブの親友と称するテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人を登場させて、口汚くヨブを叱咤する。この本の著者は三人の親友が、ヨブを失墜させるさきがけになって、人間がくるりと評価を変えるときは、まず身近な人物から顔をそむけはじめることを鮮やかに照らしだす。そしてそこから教唆されて大衆的な蹴おとしがひろがってゆく。この三人の親友がヨブの苦悩など知らぬ気に、涼しい顔をしてヨブにたいして、いきなり敵意をもってはじめる説教は、帰するところおなじものだ。おまえは神がじぶんにくだした苦痛な運命を、神の不充分な裁定のようにおもって、ふんまんの渦巻きをこころに起している。だが、おまえには神の意志の大きさなどはわからない。わからない判断のうえに呪詛をこしらえようとしているだけだということになる。この三人の友人たちがヨブに加えている言葉のリンチは、やがて集団の暴力的なリンチを呼びおこしてゆくにちがいない。このリンチの意志のひろがりのうしろには、まちがいなく神の復讐の神話がかくされていると、この本の著者は指摘する。

わたしたちは読みすすみながらだんだんとこの本の著者の読み筋がわかってくる。つまり神学的な読みや精神の内在が苦痛のあまり神にむかって、なぜじぶんを苦しめるのかと問い返す〈信〉のモチーフとして読むこととまったくちがって、神聖な王、専制的な権力をもっている指導者、そうはいえないまでも何かの能力で人々のまえで、名前を晒して「偉い人」に見える人物などが、敬意をうけているおなじ大衆からおとしめられ、踏みつぶされてしまうという類型の物語やドラマは、いったいどんな神の意志とメカニズムで行われるのか、そういうテーマとして類型づけ、その根拠をさぐりたいというのが、この本の著者のモチーフなのだ。

著者によれば、おおきな規模の体系をもった神話はすべて、全員一致でうごく殺人部隊をもっていて、殺りくすることが神聖だという物語をあみだし、「偉い人」とおもわれている者を、ひとりの犠牲者に仕立て、ひきずりおろし、迫害したあげくに、その犠牲者を死んだあとで神聖な者に復権させるという筋書きをどこかに含んでいることになる。ギリシャ神話のオイディプス物語もそうだと、著者は分析のために一項目をこの本に設けている。ヨブ記のヨブとオイディプスが違っている点がひとつだけあると著者はいっている。これは著者の興味ぶかい指摘のひとつだ。ヨブは神から不公正な迫害と苦痛をくわえられ、三人の親友からは理不尽な、敵意にみちた批判をうけ、人々からは見離されてしまうのに、犠牲の小羊であることは認めても、じぶんのかんがえ方は捨てない。神や友人たちや人々がじぶんに与えた苦痛な運命をみとめ、はやく死にたいということはあっても、神が与えた不公正をはっきりと指摘し、悪が栄えていることがあり、善や正義が傷めつけられることがある事実をあげつらうことはやめない。これにたいしオイディプスの方は、じぶんの父殺しと近親相姦が呪われたものの運命とはいえ、悪に類し、神に背く行いであり、犠牲者にはちがいないが有罪であることを認めてしまっている。著者によればヨブとオイディプスはそこがまったく違っていることになる。オイディプスがもしヨブとおなじように、父殺しや近親相姦などものともしない男で、神託など仕掛けられた罠だと頑強に言い張ったとしたら、文学研究者からも、ハイデッガーからも、フロイトからも、すべての大学教授からも非難され、精神病院のなかに閉じこめられ、二度と立ち上がれなくなり、西欧文学の問題は、解体されてしまう。ヨブ記のヨブはこれとはちがう。たしかにヨブもまた、神からおまえは山や河や嵐や鳥や獣やお前自身、その他あらゆる自然の事物と運行を造り、人間の意志を発現させた全能者と言い争うつもりかと問い詰められ、あなたの意志の実現をさまたげられないことを知ったので、悔い改めると述べている。そう述べなければ神も聖書も成り立たないからだ。だがそれ以外では、あらゆる倫理的な感情を複合し、練り固め、重層して、これ以上はないとおもえるほどの人間的な倫理の万華鏡をこしらえあげている。それがヨブ記のヨブなのだ。

ところで著者は角度をすこしずらしながらもっと先まで自分の物語をひき伸ばす。そのために著者の視野のなかでは、ヨブと三人の友人たちは、生身の有産階級のメンバー、地方政治を支配するエリートたちで、ヨブはそのなかで称賛され尊敬され、大衆から無意識の模倣(ミメテイスム)によって盲目的に挙措を模倣されていた、憧れの人物ということになる。これは同時に友人のエリート仲間からはじまり、大衆にいたる嫉妬の連鎖にとりかこまれた「邪魔になるモデル」でもあるから、いつでも称賛が離反になり、大衆の悪罵のまとになり、憎悪の方向で蹴おとされる存在でもありうる。どうもここがこの本の著者ジラールの模倣理論の確信であるようにおもわれる。そして著者はじぶんの理論の核心のところまで、ヨブ記のヨブの物語をもっていったことになる。これは旧約聖書のヨブ記の解読としてみたら、すこし無理な話ではなかろうか。しかし著者はわざわざイスラエル版の旧約書をテキストに使っていると断わり、引用などもそれに依っているから、無理な話だと断定するわけにもいかない。神話としての原形が生々しく生きている記述では、ヨブ記のヨブもギリシャ神話のオイディプスも、わが国でいえば『古事記』神話の父にうとまれるヤマトタケルも、おなじ型をもった人物として読むことができるからだ。模範となる「偉い人」としてのモデル性と、尊敬されそうなりたいと思われているゆえに、邪悪なものである存在性とが、競りあいの両価心理で高揚してくると、欲求不満がつのり、最後には爆発して、犠牲の山羊をうけ入れ、つくりだすことになる。仲間のエリート層からはじまり、大衆にまで眼をつけられている偶像や、それほどでもないのに偶像の代理物になっている存在は、わずかの失敗や弱点でもあれば、たちまち身代りの山羊にされ、蹴おとされて、屠られてしまう。ここまでヨブ記の読みをひっ張ってゆけば、独裁的な政治指導層や、それほどでもないが政府の指導者や、名声だけが過剰にひろがった芸能の世界の英雄にたいして、知識層からはじまって大衆にいたる無意識の模倣者のあいだに演じられ、ときとしてわたしたちを巻き込んでゆく愚劇、つきることのない愚劇として思いあたることになってゆく。著者は最後のところで、神はなぜじぶんの敵を失墜させるのに、くずくず手間どってしまうのか、復讐の物語のクライマックスを遅らせるのかと設問して、それに答える。それは大衆の尊敬が憎悪に転換するためには、「模倣」という媒介がぜひとも必要で、この「模倣」が浸透してゆくには、大なり小なり時間がかかるからだ。この本の著者の「模倣理論」はそう言っているようにみえる。独裁制度からはじまり大なり小なり個人崇拝なしには成り立たない社会や、集団崇拝なしには成り立たない社会、いいかえれば現在までのどんな地域のどんな社会でも、わたしたちは犠牲の山羊にもなれるし、それを屠る人々にもなれる。またこれはすべての人々にとって立場の交換が可能だといえる。この事実の恐さは、聖なる書物からはじまって、すべての書物を解体させ、無効にしてしまう力があるはずだ。この本の著者はその場所にぶつかるのを避けるように、ヨブ記を読解している。でもそれでいいのだとおもう。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN-10:4122025990
  • ISBN-13:978-4122025998

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  • ISBN-10:4588002678
  • ISBN-13:978-4588002670
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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1989年9月

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