書評

『子規の音』(新潮社)

  • 2019/04/20
子規の音 / 森 まゆみ
子規の音
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(393ページ)
  • 発売日:2017-04-27
  • ISBN:4104100048
内容紹介:
子規を読むことは、五感の解放である──。正岡子規の足跡を丹念に辿り、明治の東京での暮らしを詳細に浮かび上がらせた力作評伝。

生きることを味わい尽くすいのち

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺。私が知っている正岡子規の俳句はこれだけ。つまり、なんにも知らないということだ。なんにも知らないのに、つい、この『子規の音』を手に取った。読みはじめるやいなや、強力に引きこまれてむさぼり読んだ。

泣き虫で弱虫な子どもは十一歳で五言絶句を作り、十二歳で雑誌を編集する。旧制中学で生涯の友となる四人を得て、十六歳で故郷松山から東京へとやってくる。東京では数え切れない引っ越しをくり返し、共立学校へ、大学予備門(第一高等中学校)へ通う。背景となる東京の風景、社会事情、友人・恩師・知人たちの背景までも本書は描く。ものすごい密度と情報量である。子規と交友のあった人たちだけでも、ひとりひとり評伝がすでに書かれている人物がほとんどだ。なんだかすごい時代だったんだなと、得体の知れない熱が伝わってくる。夭折(ようせつ)した天才、米山保三郎、漱石になる以前の青年金之助、同級生の山田美妙、二級下の後輩、勝田(しょうだ)主計(かずえ)、二十歳の年上の弟子、内藤鳴雪……子規の周囲にあまりにも多くの人が登場し、そのそれぞれに興味深いエピソードが紹介されているものだから、ちょっと道に迷ってしまいそうになるが、真ん中には子規という大きな目印がある。

それにしてもなんだか変な人……、と思う。東京に出てきて数年で、こんなにも多くの人たちと出会い、交友を結び、しかもその多くが生涯の友となる子規って、何かよほど不思議な引力を持っていたのではないか。ここに描かれる、好奇心旺盛で、好きなことにとことん没頭し、嫌いなことには見向きもせず、ちゃっかり屋で、歩くのが好き、スポーツが好き、食べるのが大好き、その身の内に、ものすごいエネルギーを抱えている青年は、たしかに魅力的だ。うどんを二杯食べたあと、大福餅を持った友人に会い、大福餅を食べ、寄宿舎に帰って苦しがるエピソードが紹介されているが、そんな具合に、食欲だけでなくすべてにたいして「もっと、もっと」と欲する叫びが聞こえてきそうだ。

この、魅力に満ちた青年が二十一歳の若さで喀血(かっけつ)するとき、ああ、と思わずつぶやいてしまう。ああ、つかまってしまった。しかし子規は、病から逃れるように句作にふけり、研究し、小説を書き(それを幸田露伴に読ませるエピソードのなんとおもしろいことだろう)、そして旅をする。子規の生きるスピードが急激に速くなる。せっかく進学した東京帝国大学に通いもせずに、菅笠(すげがさ)、草鞋(わらじ)姿で房総を旅し、同じ年には木曽路も旅する。その、息せき切って進むかのような歩みのなかに、著者によって選ばれた俳句が並ぶ。そのときだけ時間が止まる気がする。先を急ぐこの俳人の目線の先で、月もすすきも、恋する猫も秋の蚊も、止まった時間に永遠に留まる。その永遠に、私もふっと入りこむ。草いきれ、陽射(ひざ)し、影、蝉(せみ)の声、月の光、旅のごはんの味、それらがいっぺんに押し寄せてくる。光景は、世界はなんとうつくしいのか、と思う。

大学をやめ、子規は、東京での庇護(ひご)者である陸羯南(くがかつなん)が社長を務める新聞社に入社する。住まいも、根岸に住む陸羯南の隣で、母親と妹を松山から呼んでいっしょに住まう。病は進み、それでも子規は体調のいいときには東京の町を歩き続ける。二十六歳のとき、焦(じ)れるようにして松尾芭蕉の足跡を追う東北の旅に出る。著者も、実際に子規を追って旅をする。子規の旅は列車と徒歩で一カ月、著者の旅は新幹線とレンタカーで八日間、光景には百年以上の隔たりがあるが、それでも私はここで、著者が、急ぎ足の子規に追いついたような印象を持った。食べるものも、目にする景色も違うが、旅はいいなあ、と解放されたような思いは百年の隔たりをものともせず混じり合う。このうつくしい世界をもっともっと見たい、もっともっと生きたい、いつしか私もそんなふうに思っている。

一八九五年、子規は医師が止めるのも聞かず日清戦争に従軍し、帰国する船で喀血、神戸病院に入院する。脊椎(せきつい)カリエス、肺結核、腸結核も併発していた。そんな状態なのに、かつて聞こえた子規の「もっと、もっと」はいよいよ大きく響くようだ。その生命力、内のエネルギー量にはひたすら驚く。ほとんど病床から起き上がれなくなっても、『ほととぎす』を創刊し、短歌革新を起こす。私が胸打たれたのは、隣家、陸羯南の娘たちとのエピソードだ。妻と子を持つことのなかった子規の、幼い子どもたちとの交流は、生き急ぐ彼のあらたな一面にも見え、その時間もまた、ほかにはない速度の流れだ。

起き上がることができなくても、そこから見えるちいさな世界を子規は言葉で切り取り続けた。多くの友人が途絶えることなく訪ね、食べることに執着し続けた。私がこの本で出会った正岡子規は、病に苦しみ夭逝した偉大な人ではなくて、生きることをいのちのすべてで味わい尽くし、死の前日まで言葉で世界を自分のものにした人である。どうしたって好きにならずにいられないような人である。
子規の音 / 森 まゆみ
子規の音
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(393ページ)
  • 発売日:2017-04-27
  • ISBN:4104100048
内容紹介:
子規を読むことは、五感の解放である──。正岡子規の足跡を丹念に辿り、明治の東京での暮らしを詳細に浮かび上がらせた力作評伝。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年6月4日

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