書評
『小説修業』(中央公論新社)
対話の「小説化」
公開を前提とする論争や往復書簡のなかには、対話を必要としていない自説の開陳に走るだけのモノローグの羅列や、相手を過度に気づかっての、不毛な挨拶に終始するものが少なくない。互いの言葉や思想が響きあう幸福な二重唱もあるにはあるけれど、そういう事例にも、ときとして対話者ではなく読者への媚(こ)びがつきまとうから始末が悪い。その点、小島信夫と保坂和志という、おそらく筋金入りの頑固者と呼んでいいだろうふたりの作家が、みずからの小説観、もしくは創作の奥義らしきものを語り合う趣向の本書は、想定しうる弊害からことごとくまぬかれた、驚くべき一例である。ふたりのつきあいは、保坂氏がカルチャーセンターの企画担当者だったころ、小島氏を講師に迎えようとしたとき以来のことらしいから、手紙のなかでも師と弟子といった世間並みの関係を維持するかと思いきや、これがそうではない。お互いに敬意と関心を抱きつつ手放しで賛同はせず、平行線をたどるかに見えてふと接近し、目が合うのではなく肩が触れたような軽い衝突を繰り返す。四十歳の年齢差、作家としての経歴など問題にならない。この間合いは、両者が対等の関係にあるからこそ生まれたものなのだ。宇宙的規模の偶然によって「たまたま」遭遇し、そしてこの「たまたま」がじつに必然的な事態であると感じさせるしかたで、話は最後まで対等の力による押し引きで運ばれていく。
小島氏は出会った人々の言動をひとつの情景として、悪意も意味づけもなく自作に取り込む。「相対しているときの儀礼的な部分を無視して記憶してしまう」のが小島文学の鍵だと述べる保坂氏は、逆にその「儀礼的な部分」を残したうえで、周りの人間を作中に生かす術に長(た)けている。だからこの往復書簡は、相手を登場人物として動かそうとし、その意図が合わせ鏡の像さながらどこまでも奥へのびていくその気配においてまぎれもない「小説」の実作であり、「修業」となりえているのである。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 2001年10月14日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
ALL REVIEWSをフォローする