書評

『世界大博物図鑑 2 (魚類)』(平凡社)

  • 2017/07/05
世界大博物図鑑 2 / 荒俣 宏
世界大博物図鑑 2
  • 著者:荒俣 宏
  • 出版社:平凡社
  • 装丁:大型本(531ページ)
  • 発売日:1989-06-01
  • ISBN-10:4582518222
  • ISBN-13:978-4582518221
内容紹介:
第11回(1989年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞

アニマのバロック劇場

全五巻のうち既に三巻分の出た『世界大博物図鑑』は[のち、むろん全巻完結]、怪物荒俣宏の「畢生の大作」であるというより、今世紀出版史に残ることが確実な記念碑的な作品であろうと思う。自己耽溺的に博物学のディスクールとイコノロジーを演じながら、博物学とは何かということを考えさせるメタな仕掛けもいろいろひそんでいる仲々手のこんだ重層的なつくり方の本とみた。少し大げさにいえば、これから来る世紀末の風景ともかかわってきそうな問題作である。

一代の才人が昼夜をわかたず献身的に打ちこんできたのだから、ぼくごときがそれを「ゆったりした」などと評するのも罰あたりな話だが、よそ目にはとにかくほぼ二年間に一巻というゆったりしたペースで「鳥類」、「哺乳類」、「魚類」の順で三巻出た。その時間は無駄ではなくて、著者自身「信じられない」「途方もない」本ができあがっていった。その間に澁澤龍彦と手塚治虫両先達の訃に遭遇した荒俣氏自身の「終り」の感覚さえそこここに感じられて、こわい気がする。

このあと「両生・爬虫類」の巻、「昆虫類」の巻が出て全巻揃った時の偉容が今から想像されてゾクゾクと鳥肌がたってくる。何か言うのはその時でもと思ったのだが、序文に並々ならぬ自負を盛り、その自負に見合う、実際先の二巻とは桁ちがいのド迫力の多色図版の連続が目にもあざやかな「魚類」の巻も出たことだし、二、三感じたことを綴ってみよう。

ボウッと光る謎のマツカサウオを偏愛し、海もぐりを愛する荒俣氏の面目躍如たるこの「魚類」の巻、一切分野を問わず今年(一九八九)の本最大の収穫とみた。珍魚どもが身に帯びた原色がけざやかに目を射るカラー図版の級密と鮮烈は例をみない。特に淡白な線の日本画が良いのが皮肉で面白い。「たぶん、これだけの名作図版を発掘し集大成した書物は、本書以外に世界に存在しないと思う。いや、きっと本書以後にもこのようなこころみを行う著者は出てこないと考える。」「今後とも世界で本書を上回る魚類図像誌は出版し得ないと自負できる」。荒俣氏の常の謙虚を好もしく思っているぼくなど、いきなりこの彼としては珍しいドーモーな覇気に驚かされた。実際、その自負に応えるみごとなできばえではあるまいか。イタリアなどから版権の引きがきていると聞いたが、当然だろう。西欧有名図譜に劣らぬ数の和漢奇書の図版が採録されてもいる。ヨーロッパから日本に博物学の本を買いにくるなんて近来の欣快事ではあるまいか。

「殖やす」夢

博物学とは何よりもまずバロックなのである。『世界大博物図鑑』は、まずそのことを教えてくれる。筑摩書房のバロック・コレクションに秀逸なバロック論を寄せている荒俣氏は、動植物を素材にバロック精神を実践してみせているのである。バロックといえば詩だの絵や音楽だののものと考える人、きみはひょっとしてもう手遅れなのかもしれないぜ。どこにでも何にでもエスプリ・バロックは存在する。エウへニオ・ドールス分類の二十二のバロック種(しゅ)はほとんどあらゆる事象をカヴァーしているではないか。エスプリ・バロックはどこにでも現われる。増殖と過剰がありさえすれば、そしてそれによって境界線がいろいろなレヴェルで笑いとともに融けはてていきさえすればどこにでも、だ。まさにこのことを通じて動物(アニマ)のバロック劇場を荒俣氏は可視化しようとしている。

一番はじめに出た「鳥類」の巻には企画全体に対する「まえがき」がついていて、「科学でもなければ文学でもない。その両方が分化する以前の知の体系」に他ならない「博物学」を、簡潔に「存在を殖やす学」ということで規定してみせる。「生物学は、対象を狭めていくけれど、ナチュラル・ヒストリーは対象をかぎりなく殖やしていく、ということになるだろうか」。これは関心の対象、文体すべてについて「殖やす」人であるアラマタという一個の存在自体の自己規定でもあろう。「殖やす」ためには、既成の境界なり範疇なりを越えることが必要となる。こうしてこれら画期的な図版の構造と方法と文体は、おのずと決まるだろう。「世界中に存在する千種もの鳥を図示した、おそらく日本でもはじめての企画であろう。いや、存在すると書いたが、実際は存在しない架空の鳥までも含んでいる。しかも事実と「虚」の両方を等しく情報としてとりこんだ」。虚実の皮膜は戦略的に突破されねばならない。

そう思ったとたん、そうだ、これを見てみようという項目を思いついた。「鳥類」の巻の「鵺」。何と読むかも分明でないところが象徴的。そう、ヌエと読む。「頭は猿、胴は裸、尾は蛇、手足は虎のよう」な、要するに得体の知れぬ相手が「鶴」なわけだが、これが「クロウタドリ」と「ブルーバード」という実在の鳥のはざまにちゃんとおさまっていて、実はトラツグミの古名が「ヌエ」であって、『和名抄』にはこう出ている、『和漢三才図会』にはこう、『源平盛衰記』にはこう……と、典型的にテクスチュアルな「博物誌」的説明が加えられる。まことしやかに、という感じで、淡々と。ウガ(何だかわかりますか)のことを得々と説く南方熊楠を荒俣宏がことのほか愛していたのを思いださせる。こともあろうに「鵺」が、分類不能事の同意語たる謎の相手が、今しもちゃんと分類系列上の一点に布置され、解明されようとしているのだ。虚実とりまぜて「殖やす」ことは好きだが、分類化、範疇化を信じてはいない荒俣氏が分類学に対して、結構人の悪いメタ批評を加える。彼の呵々たる高笑いが聞こえてきそうだ。サルマン・ラシュディの『悪魔の詩(うた)』の表紙にあしらわれていた巨大怪鳥「ガルーダ」もちゃんと出てくるが、こちらはちゃんと「架空のウシタカ類」という項目にまとめられている。じゃあ「鵺」は「架空」じゃないのか、と妙に居心地が悪い。「ユニコーン」も、「人魚」も、「河童」もある。例のナンセンス獣「ナソべマ」「鼻行類」もある。ズルッときそうといえば、えらく専門的で細かい分類の続く只中にいきなり「ニワトリ」「ハト」などという大雑把な項目が立って笑える。「哺乳類」巻頭の「ヒト」っていうのも、なにしろすごい。

絵の方もいろいろ「途方もない」見開きページがあって、「鳥類」の巻ならキジ類のところ、「セイラン」「キンケイ」「ギンケイ」という「実」の鳥たちの級密な絵となにくわぬ顔して並んでいるのが「鳳凰」。「鵺」と同じで、字が読めないところが既に怪しい。そう、ホウオウ。実在しない鳥の代表選手。この「虚」の鳥が「実」の鳥たちよりさらに緻密にそれらしく描かれているのだから始末に悪い。(魔術的)リアリズムこそファンタジーではないだろうか。一般に絵のキャプションが仲々おかしいのだが、ここも笑えた。「鳳鳳――キジ、セイラン、ニワトリ、クジャクを合わせた姿はまさに空想の極致。……まるで見てきたように整然と描かれたところが恐しい」。まことに人を食った荒俣氏だが、「実」在のものをいろいろと「合わせた」ものが「虚」であり、「空想」であり、そうした「空想の極致」が「博物学」という名のエスプリ・バロックであるという氏の一貫した持論を図解したようなカラー・ページではあった。

虚実の境界を融解してしまうのは文字による記述部分にも多分戦略として徹底されている。鳥獣の生態の科学的説明や学名の煩瑣な議論から故事や「星座」や「天気予知」(「タカが出て三日月には雨」!)までがぎっしりつまる。文字通り越える文章。「科学でもなければ文学でもない」のである。さかしらな目的論的読書を嘲笑するかのように脱線し、雑学のあらん限りをぶちまける「殖やす」文学、そう澁澤龍彦偏愛のあのロバート・バートンの『憂鬱の解剖』を代表格とするいわゆる「アナトミー」文学のことを思い出す。鯰絵の歴史だの、チェシャ猫のニタニタ笑いの秘密だの、バニー・ガールの衣裳の真の意味だの、雑学の宝庫、「猥雑の肯定」(南方熊楠)。ルネッサンスのアナトミー文学と博物学がじ線上に並ぶ。この大発見を、ぼくは『世界大博物図鑑』から教えられた。しかもこの「殖やす」文学系譜が「今」なお続いていることを、他ならぬ荒俣氏のこの本が証してくれる。虚実とりまぜて雑学(ロア)を愉しむこうした本を「科学」か「文学」かどちらか一方から見ようとする人は少なくとも博物学、そしてバロックとは無縁の仁なのであり、歴史的にみればこうした「分化」の強迫観念がバロック/博物学を追放したのである。

虚実の境目を「信」と「不信」の境目と言い換えて、「不信の一時停止」がいかに豊饒な幻想をうむかを、全巻あげて示そうとしたのがつまりは「魚類」の巻であるといえる。魚類は余りにも美しすぎる、と氏はいう。嘘ではない。「魚類」の巻は意図的にカラー・ページをとぎれなく連続させるので視覚効果は他の二巻を断然圧するが、そのページめいっばいに採録された魚たちの千変万化百宝色(じき)の形状と色彩の多様、珍奇さ加減は凡夫の想像を絶する。絶対にいないとしか思えないものがいくらも出てくる。荒俣氏はわれわれの「信」をためしているのだ。「これは架空の魚だ。絵師のでっちあげだ」といい張ったさる人物がその本物をみせつけられてギャフンとなったという逸話を予め読ませておいて、さあこの本の変な魚たちの「実」在を「信」じますかと聞いてくるのだから意地悪だ。繰り返しいうが、荒俣氏はみかけほど陶酔しているわけではなくて、博物学の思考法を体感させようとして、こちらにいろいろとメタの仕掛けを仕掛けてくるのだ。うむむ、これは仲々手強い性(しょう)悪の本だ。

博物学の憂鬱

手放しで喜んでばかりもいられない。荒俣氏の本が透徹している分だけついつい見えてしまう博物学の憂鬱な面があるからだ。その意味で問題になるのは「哺乳類」の巻だろう。観察する主体たる「ヒト」が彼に観察される「哺乳類」の一部分である。まさに「人間は哺乳類中最大のパラドックス」なのだが、荒俣氏は「ヒト」の項目を立てることで、博物学が隠蔽し非在化してきたこの主客の関係を顕在化させる。荒俣博物学のメタぶりは、こうして「ヒト」を顕在化させることで完璧なものとなった。そしてこの「ヒト」が自らの役に立つ「有用の順」に鳥獣を分類してきたことを説く。「有用」とは端的にいえば食用可能ということ。「分類学は肉の味によって編みあげられていた」。どきっとさせるようなこわい言葉だが、『世界大博物図鑑』既刊三巻を通してのキー・コンセプトはこれに尽きる。博物学は「食べる」営みのアナロジーである、と。分類した動物を何であれ全て食した博物学者フランク・バックランドのことを思いだした。動物に人間の性質を押しつけていくことで豊かになった「道德的」博物学だって、獣の「他者」性を啖(くら)い尽くす人間中心主義(アントロポモルフィズム)の発現ではなくて何か。「哺乳類」の巻はそのことに気づいて憂鬱になりはじめている。

しかし、ならばなぜそもそも博物図譜における絵、図版が対象を「食べる」手段であることをもっと尖鋭に意識化しないのかと思う。これほどヴィジュアル資料に耽溺できる才能は稀だと思うが、生きた世界を「殺し」て額縁のメタファーに封印し、標本化するメカニズムとしての近代絵画のもっとも突出した部分が博物図譜だったことは明らかだからである。博物図鑑を支える絵の、いやます精密さ、いやます多色化にひそむイデオロギー的問題が看過されている。ここにもっとメタ・レヴェルが欲しい。稀にみるカラーの美しい本だが、まさに博物図鑑の歴史的成功はそこに起因していた。「鳥類」の巻の「ハチドリ」と「フウチョウ」のところを見ればよいだろう。金持ちはカラー図鑑を、貧乏人は同じ図鑑でも黒白版のものを買ったというような歴史的経緯が、ぼくなどはやはり気にかかって仕方がないのである。この本の美しさそのものに問題がひそんでいて、この点に限っていえばメタな自己省察の契機が欠けている。

動物園の隆昌、ペット産業の盛行、そして動物のぬいぐるみのヒット……と次第に救いなく同心円が縮まってくる「ヒト」と動物のつきあいのプロセスは、現実の動物の「絶滅」のプロセスと正確に比例していたことを糾弾したのは、『イメージ』のジョン・バージャーの動物園批判論「どうして動物を見るのか」(一九八〇)である。海も空も汚れ、酸性雨が森を消滅させはてた二十一世紀の入り口の世界「ヒト」と畜獣以外のすべての鳥獣が絶滅しているだろう。『世界大博物図鑑』の楽しそうなお喋りを縫いとっていく陰のキーワード、それが「絶滅」であったことに気づく。「鳥類」開巻いきなり、絶滅したダチョウ類の話。そして「哺乳類」の幕を閉じるのは「鯨供養」の図。つまり既に鯨の不在の図像がそこにある。「食べ」られたのだ。

博物図鑑はたしかに「殖やす」。言語と絵画の現実を。そして「虚」の鳥獣を。しかし歴史的にみれば博物図鑑のそうした「虚」の動物の増殖は、正確に「実」の動物の「絶滅」に比例していた。荒俣氏が自負するようにこれが最後の博物図鑑だとすれば、それは「実」の世界が「絶滅」のゼロ度に限りなく近づいていることを示すまがまがしい証しなのである。「実」の「絶滅」を糧に「虚」が「殖」えていく証しなのである。「実」と「絶滅」を糧に美しいアート紙の上の自らの精緻と絢爛に磨きをかける、ちょうど一世紀前のエルンスト・へッケルの博物図譜が酔った「虚」の美とデカダン。「本書『世界大博物図鑑』は、世界中の全生物がたとえ絶滅したあとも、なお有効性を持続する窮極の博物学書とよんでいいかもしれない。すくなくとも、そのような意図をもって本書はつくりあげられた」と荒俣氏はいってのけた(「鳥類」の序)。この「有効性」は既に世紀末的美学の範疇である。この吸血鬼のようなこの加藤保憲のような豪奢な図譜の全体に「終り」の感覚が感じられてこわいといっておいたのはそういうことである。淡々としているところがこわいのだ。鳥獣を口実にした帝都大戦、そんな感じさえ受けた。この本の完結は動物たちの終りなのだ。

【この書評が収録されている書籍】
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
  • 著者:高山 宏
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(1198ページ)
  • 発売日:1995-06-00
  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
内容紹介:
とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。

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世界大博物図鑑 2 / 荒俣 宏
世界大博物図鑑 2
  • 著者:荒俣 宏
  • 出版社:平凡社
  • 装丁:大型本(531ページ)
  • 発売日:1989-06-01
  • ISBN-10:4582518222
  • ISBN-13:978-4582518221
内容紹介:
第11回(1989年) サントリー学芸賞・社会・風俗部門受賞

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1989年12月

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