書評
『決戦下のユートピア』(文藝春秋)
政府と鮨屋の激しい”攻防”
戦争という非常時にあっても、日常生活は営まれる。しかも銃後の国民が、常に日々是決戦の掛け声の下で眥(まなじり)を決して悲壮な感じで毎日を暮らしていたわけではない。しかし戦後生まれの人間にとっては、そこが実感としてはわからない。山本夏彦や山本七平らが折に触れて体験者として描いた戦時日本の実態について、さらに理解を深めるにはどうしたらよいのか。本書はそのための恰好(かっこう)の読み物である。著者は「決戦下の日本にも、悲劇とともに喜劇があり、地獄のとなりにユートピアがあったのではないか」との仮説を前提に、結婚・ファッション・赤ん坊・科学教育・貯蓄・保険・食生活・演劇・遊興施設などのアイテムをとりあげ、文字通り決戦下のユートピアを発見していく。
その際著者は、「主婦之友」「婦人画報」「東日小学生新聞」といった婦女子むけのメディアや、いわゆるぞっき本の類をフルに活用する。言論統制下にあってなおタテマエの中にホンネの部分を覗くことのできる資料を、手慣れた博物学的手法をもって料理する、その手際は見事だ。
母よあなたは強かったと思わずため息をつきたいほどの、決戦下の結婚相談所における母親の身勝手とエゴイズム。国民学校における科学教育と音楽教育の重点化にみる、これまた意外なまでの活きたカリキュラムとしての実効性。軍の士気にかかわるというタテマエの下に、遊興施設や演劇の取り締まり強化を叫びながら、ホンネの部分ではそれらを最も必要とした軍部の自己欺瞞(ぎまん)。
何よりも傑作なのは、日本の食文化のシンボルとも言うべき鮨(すし)をめぐる決戦下の攻防戦だ。まずは昭和十四年の白米禁止に対する江戸前鮨の組合の反発。次いで十五年の贅沢食品禁令に対する料亭の事実上の無視。さらに十六年の公価と品目制限に対する鮨屋の自主規制とみせかけたランク分けと特級店の創設。こうして十九年までは鮨や天ぷらの上物が食べられたという。政府当局と鮨屋や料亭との虚々実々の駆け引きが目に浮かぶようだ。
決戦下にあって日々生きる国民は、まことにしたたかで頼もしい存在に他ならなかった。
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