書評
『稀書自慢 紙の極楽』(中央公論社)
本の収集をテーマにした爽快な一冊
百冊目だという。中学生時代、昼休み、校庭の日だまりでおしゃべりに興ずる友だちを尻目に、教室でひとり英国動物学会の会誌を辞書を片手に読んでいた荒俣少年だから、また、大学に入ってからは幻想文学の翻訳で食べていたのだから、齢四十の半ばにいたって著書が百冊たまり、身の丈をついに越えたのは当たり前かもしれない(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1991年)。しかし、彼の本がどうも肌に合わないという人も少なくない。とりわけ小説好きや歴史や思想に関心の深い人にこの傾向は強いと思う。テーマの問題、文体の問題などいろいろあろうが、究極のところ彼の文章の中には”人間がいない”ことが一番の原因だと思う。もちろんどの本にも主人公は登場するのだが、どこか張り子の人間みたいな空白感を否めないのである。
このことが、読者を好きと嫌いにきっぱり二分し、中間がいない、という結果を生んでいる。
さて、百冊目のこの本(中央公論社)だが、荒俣ぎらいもこの一冊は見逃さないでほしい。 香具師(やし)の口上じみるけれども、騙されたと思って手にとってほしい。異能な著者と幅広い読者をつなぐただ一冊の本になるかもしれないのだから。
内容は、少年の頃は遊びより本が好きだった、大人になってからは女性より好きだった、といったことに尽きるのだが、これまで出た多くの本好きの本のようなクサミがないのがいい。本好きの本に固有な屈曲した自慢臭が全く漂ってこない。代わりに、故反町茂雄が古典籍を相手にした時と同じような爽快さがある。本の収集をテーマにして、なおかつ爽快というのはめったに出来ることではない。
本への気持ちの純度がそれだけ高いのだろう。
たとえば、家が貧しくて(本当に貧しかったらしい)本を買うお金がなかった頃、どうやって本を集めたかの話が出てくる。手写しするのである。小学生のうちから貸本を手写しによって蔵書をはじめ、大学に入ってからの幻想文学の原書、たとえばアイルランドのダンセイニの短編集『時と神々』の場合。
……見開きで二ページとれる部分はゼロックス、片側だけのところは残りの空白をコピーしても損するだけだから経費節減のために手写しで行くことにした。一週間後、ゼロックス分と、開明墨汁にGペンで描いた手写し分との合成が完成した。……が、これを製本する段になり、愚生はまたも閃くものを感じた。挿絵。挿絵である。……
どうしたか。そっくり写しとり、色まで付けて仕上げたのである。
こうしてできあがった手づくりの『時と神々』を、毎日カバンにいれて通学した。……将来はこの一冊を翻訳し、日本語として世に出そう、そう決心したのも、その時分だった。二十歳には夢があった。
荒俣宏は本のことを書くと“人間がいる”。
二十歳の夢をこれからも持続してほしい。本以外、失うものはもう何もないのだから。
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