書評

『ある書誌学者の犯罪―トマス・J.ワイズの生涯』(河出書房新社)

  • 2017/07/28
ある書誌学者の犯罪―トマス・J.ワイズの生涯  / 高橋 俊哉
ある書誌学者の犯罪―トマス・J.ワイズの生涯
  • 著者:高橋 俊哉
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:-(312ページ)

偽書という情報犯罪

父親の職業さえ不明ないかがわしい生まれの少年が、わずか十五歳でロンドンのファーリンドン通りの屋台の古本屋でシェリーの稀覯本『チェンチ一族』初版本を発掘した。少年は小学教育さえ受けておらず、げんにこのときも給仕としての月給から、大枚四十ポンドの古書購入費を工面したのだった。

無学歴の少年は、十年後には一流の書誌学者と伍してブラウニング協会幹事となり、古本漁りの現場経験から叩き上げた書誌学者としてめきめき頭角をあらわしはじめる。シェリー協会に参加し、スウィンバーンの知遇を得、『ラスキン書誌』を書き、さらに独力で刊行した自蔵の膨大なコレクションの紹介解説のために『アシュリー文庫』を発行し、書誌学の専門雑誌に偽造本についてのいくつかの警告的エッセイを精力的に書きまくったりもする。四十代に入るやこの男トマス・J・ワイズは、本業の実業家としてもリューベック商会の共同経営者としてゆるがぬ地位を固め、かたわら「書誌学界のナポレオン」と呼ばれて斯界の法皇的存在にのし上がってゆく。

ここまでは前世紀英国の勃興する中産階級に出身した一人の男の立志伝である。だが後半、栄光の生涯は一転して、ワイズは地獄に堕ちた。大書誌学者は同時に、シェリーやブラウニング夫人をはじめとする詩人たちの偽造本作者だったのだ。『ある書誌学者の犯罪』と銘打たれた本書のクライマックスは、したがって次つぎにワイズの「犯罪」が明るみに出てくる後半にある。とりわけ若い書誌学者力ーターとポラードに動かぬ証拠をつきつけられて、反論のすべもなく、栄光の絶頂で石のような沈黙を余儀なくさせられる最晩年の破局の数章は、読者をスリリングな読中感に酔わせるだろう。

著者によれば、ワイズは偽造に際して、「はじめから偽造の物理的類似性にはほとんど関心を払わなかった」。彼の偽造の対象である近代詩人たちの初版本は、大方が偽造時より二十年ほど前のもので、たとえばシェークスピアの「未発表戯曲」を「新発見」したと称するW・H・アイアランドのように、古めかしい外見を凝らす必要にさほど迫られなかったためだ。つまり書誌学の知識を援用した情報犯罪であり、その点に現代の情報犯罪にも通じる新機軸がある。

さて、立志伝中の人の出世物語と、その裏である犯罪の打ち明け話とあれば、それだけで十二分に面白いのはいうまでもない。だが本書の真の魅力は、これとは別のところにもあるかもしれない。ワイズがなかばは作品を偽造するために接近した十九世紀英国詩人たちをめぐって、大筋を外れて英文学夜話の路地小路を訪(おとない)いあるく、著者のサロン閑談風の語り口に魅せられる読者もまた、決してすくなくはないはずである。

【この書評が収録されている書籍】
遊読記―書評集 / 種村 季弘
遊読記―書評集
  • 著者:種村 季弘
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(268ページ)
  • ISBN-10:4309007767
  • ISBN-13:978-4309007762

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ある書誌学者の犯罪―トマス・J.ワイズの生涯  / 高橋 俊哉
ある書誌学者の犯罪―トマス・J.ワイズの生涯
  • 著者:高橋 俊哉
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:-(312ページ)

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

朝日新聞

朝日新聞 1983年7月11日

朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
種村 季弘の書評/解説/選評
ページトップへ