書評
『敗戦前日記』(中央公論社)
日記を書く理由
他人の日記を読むのは文句なく面白い。その「面白い」という心理の裏側には「覗き趣味」があることは否定できないけれど、それは非難すべきことではないのだろう。遥かずっと昔、ぼくがまだうんと若かった頃、一緒に住んでいた女の子の日記を偶然見つけ覗いてしまった。彼女は毎日、それもとても長い日記を書いていた。そして、悪いこととは知りながら、ぼくは毎日その日記を見ずにはいられなかった。なにかを「読む」という経験に関して、あれほど興味をひかれ、面白く、かつ恐ろしいものはなかったような気がする。それは、ぼくがその日記の主要登場人物だったからであり、同時に他人の目に自分がどのように映っているかが赤裸々にわかってしまうからだった。そして、その時ぼくは、もしぼくが何かを書くようになるとしたらその作品が見ず知らずの他人にとって、その日記のように「興味をひかれ、面白く、かつ恐ろしいLものであってほしいと思ったのだが、それはほんとうに難しいことなんだ。
さて、これを日記を書く側から見るとどうなるだろう。
「日記文学」とでも呼ぶしかないジャンルがあるように、「文学としての日記」はずいぶん書かれてきた。しかし、ふだん「文学」を生産しているはずの作家がどうしてわざわざ日記という形で「文学」しなくちゃならないのか。もちろん、作家の日記といっても明らかに発表を意識して書かれた永井荷風の『断腸亭日乗』のような作品もあれば、発表の意図などなかったのに、死後、作者に無断で出版されたものもある。けれども、ぼくの考えでは、公開の意志があるかどうかは、日記を書く作家にとってはほとんどどうでもいい問題なのである。
中野重治『敗戦前日記』(中央公論社)を少しずつ読んでいる。発表の意図のないこの日記を読んでいると、健康に関して異常に敏感な箇所や、本を読んでも映画や劇を見ても「つまらない」とか「くだらない」とばかり感想を述べるあたりや、どうしようもなく口喧嘩ばかりしてしまうところは誰の目にもとまるし、「ああ、あの中野重治は、やっぱりこういう人だったんだなあ」と感心してしまうだろう。だが、ぼくは中野重治の(だけではなくほとんどの作家の)日記のもっとも重要な場所はそこではないと思うのだ。
東横百貨店
「ゴメンナサイ」と叫んで少年走る(中学生らし)ー階段(二→一階)にとびおりる。「ちよつとお待ちになつて下さい」と叫んで少女(黒の制服ー店員らし)がおいかけて同じく階段にとび込む。少年の声は罪の意識におののいている。少女はおのが責任にかんし、少年に停止するようコン願している。心をいたましむるかな。
今朝(何時頃か、くらいうち)卯女ねぼけて泣く。すぐ泣きやむ。忽ち父の顔を二つ打つ。父卯女の右尻をしたたかに打つ。忽ち母親とび起きざま父の首すじを二つ打つ。父親もねぼけていしならむ。
こんなささやかな情景をさっとスケッチしている時、中野重治の「作家」の部分は大きな喜びを感じていたはずである。ここには現実の世界の一部がくっきりと切り取られている。そして、こんなに明瞭な世界はなかなか小説にすることはできない。なぜなら、作家はいつも書きすぎてしまうからだ。作家が日記を書くほんとうの理由は、実は、そこが書きすぎないことによって完全な表現に至ることのできる世界だからだ。そう、そこは作家にとってユートピアなのである。
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