書評
『性とスーツ―現代衣服が形づくられるまで』(白水社)
ネクタイは男根のシンボルか
政界やジャーナリズムで男っぽく、スーツ姿を決めている女の人を見ると、どうしてネクタイだけはしないんだろうと思う。宝塚ではちゃんとネクタイもするのに。なぜネクタイだけは、の疑問にこの本『性とスーツ』(白水社)は答えてくれる。ネクタイは男根のシンボルだから、と。なるほどそういうことだったのか。
言われてはじめて気づくことをこの本はノッケから連発する。目のウロコが落ちまくる。スーツ、そう、サラリーマンなら、サラリーマンでなくても堅気な仕事をしてる人ならかならず着たことのある男のスーツは、衣服の歴史の中ではきわめて特異な存在だ、と、著者はまず言い放つ。そんなこと考えたこともないから、たいていの読者は、この一言で関心をグイと把(つか)まれ、読み続けるはめになる。
歴史上、スーツのどこが特異なのか。その理由はひとえに尋常ならざる持続性にあり、イギリスで成立してから二百年間、基本はちっとも変わっていない。ファッションは変化を旨とし宿命とするのに、スーツだけはこの宿命から逃れているのだ。同じ二百年の女のファッションの有為転変とくらべると、男のスーツの持続力と繁殖力は信じられないほどで、今では地上のすべての男をおおい、女さえも包んでいる。
このスーツの謎を解くに当たり、著者が立脚する服装観は明快で、服は、社会階級や職業や年令を語るものではなく、まず第一義的に性を強調するものと性格づける。この定義を読んで、つい巻末の“著者近影”を見ると、口が大きくて印象的な美しい方であった。ヨーロッパのスーツ成立以前の男と女の服は、対比的な性の演出をしていて、男はピッタリのタイツをはいてモッコリを強調し、つまり下半身重視で、一方女は下半身はスカートで包み隠し、胸から肩にかけて露出し、つまり上半身重視。
スーツは、こうした男のモッコリ主義を否定し、タイツをズボンに変える。上着も、肩にパットを入れて体をバッシリ固めるヨロイ型から、ボタン留めで筒ソデのゆるやかに包むものへと変わる。派手なフリル付きのシャツは簡単なエリのシャツに変わり、モッコリの埋め合わせをネクタイが務める。
無駄な飾りがなくなり、動きやすく、機能的な服が、史上はじめて成立する。飾りは様式性、文化性を帯びているが、これを取り去ることで、どの文化の産物ということもなくなり、インターナショナルな性格を帯びる。「洋服」という言い方はことスーツについては正確じゃなくて、ヨーロッパ各国にとっても伝来の文化や国籍から離れた性格の服であった。著者はこうした性格を「モダン」と呼ぶ。
建築界では、鉄とガラスとコンクリートの四角な建物をモダニズム建築とかインターナショナルスタイルというが、なるほど、スーツこそ、服装界のそれだったのだ。ただし、建築とちがい、スーツは、ネクタイの有無によって性差を示すことだけは忘れない。
国籍も文化も階級も職業も年令も捨て、性差のみを残す合理的で機能的なスーツ。
性差だけは堅持しながら他の性格は合理性一本にしぼったことで、スーツは、服装の宿命の流行を越えることに成功し、これまで二百年も続いてきたのだった。一方、女の系統の服は、そのような発明にはいたらず、むしろ、男のスーツに近づいてきていると著者は言う。やがてネクタイだけが性差を示すファッションの時代がくるんだろうか。
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