書評

『タブロー・ド・パリ』(藤原書店)

  • 2023/04/22
タブロー・ド・パリ / ギョーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー, ジャン=アンリ・マルレ
タブロー・ド・パリ
  • 著者:ギョーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー, ジャン=アンリ・マルレ
  • 翻訳:鹿島 茂
  • 出版社:藤原書店
  • 装丁:大型本(180ページ)
  • 発売日:1993-02-01
  • ISBN-10:4938661659
  • ISBN-13:978-4938661656
内容紹介:
国立図書館に150年間眠っていた石版画を、19世紀史の泰斗が発掘出版。人物・風景・建物ともに微細に描きだした、第一級資料。
ある習慣が、歴史のどの時点で生まれ、どの時点で消滅したのか、これを知るのは思っているよりも、はるかに難しい。たとえば、日本人はいつから卓袱台(ちゃぶだい)を捨てて、テーブルで食事を取るようになったのか、という問題ですら、正確な年月の同定は、もはや困難になってきている。もちろん、どの時代にも風俗観察家はいて、物珍しい現象や目新しい風習があればこれを書き留めておいてくれるが、その時代のもっともありふれた習慣や事物は、こうした観察家の目さえもすりぬけてしまう。ところが、後世が一番知りたいと思うのは、実はこうした平凡な日常なのだ。というのも、その時代のメンタリティーを形成するのは、まさにこの日常性だからである。

近年、アナール派歴史学は、こうした観点に立ち、死後財産目録の調査や警察令の研究などを徹底しておこなってその時代の日常性をあぶりだそうとつとめているが、その場合、一番好ましいのは当時の日常生活を視覚的に再現できるような資料が発見されることである。しかし、こうした資料はそうお誂(あつら)え向きに存在したわけではない。筆者が専門にしている十九世紀前半のパリに限って言っても、風俗観察文集は思っているよりも豊富にあるのだが、肝心のグラフィックな資料は意外に乏しいというのが実感だった。ところが、なにごとも探してみるもので、バルザックの『人間喜劇』全編の絵解きとなるような石版画集が存在していた。探し出したのは、王政復古期の権威である、フランスの歴史家ギョーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー。そして、くだんの石版画集とは、無名の画家アンリ・マルレが一八二〇年代前半に描いたまま、パリ国立図書館に百七十年間眠っていたパリの日常生活情景集『タブロー・ド・パリ』である。

どこでもいい、この本の任意のページを開いてみるといい。そこには、バルザックの主人公たちが一歩パリの街に足を踏み出したときに目にしたであろうような民衆の日常が、あるいは彼らが羨望(せんぼう)の目で見詰めたであろうような上流社会の風俗が、あたうるかぎりの正確さで描かれている。

たとえば、『あら皮』には、主人公のラファエルが「朝まだき、こっそりと、その日の糧を自分でもとめにでかけてゆき」、二スーの牛乳を買ってくるとあるが、この牛乳は、本書の『牛乳売りの女』という石版画に描かれているような牛乳売りのおばさんから買ってきたのだろう。もしかするとラファエルはこの絵の中央にいる若い男のように女たちに囲まれながら恥ずかしそうに牛乳を求めたのかもしれない。

いっぽう、『幻滅』のリュシアン・ド・リュバンプレが、シャン=ゼリゼで出会って成り上がりの願望をかきたてられた豪華な馬車の群も、そのものずばりという感じで本書に登場している。バルザックは、この馬車の行列は「ロンシャンをしている」と書いているが、この謎(なぞ)のような言葉もこの本の『ロンシャンの散策』を見れば、それがもともと、ロンシャンにあったクララ会修道院に行くための貴族たちの馬車の行列から生まれた、富の衒示(げんじ)のためのパレードであることがわかる。

ところで、いま、いかにも訳知り顔に、マルレの石版画の読み取り方を書いたが、実はこれ、すべて解説のベルティエ・ド・ソヴィニーの書いている内容を引き写したにすぎないのだ。つまり、当時の風俗をリアリズムで描きこんだマルレの絵の細部を読み取るためのコードはなにもかもベルティエ・ド・ソヴィニーによって親切に用意されているのである。だから、我々は、絵を見ては解説を読み、解説を読んでは絵を見るという作業を繰り返して時間を忘れていればいい。しかも、その語り口は、いかにも、王政復古という時代をこよなく愛する貴族の末裔(まつえい)ベルティエ・ド・ソヴィニーらしく、対象に対する限りないいとおしみが感じられるので、「絵画を読む」そして「歴史を読み取る」ことの楽しさが、こちらの胸にも直接に伝わってくる。たとえば、『デッサン塾』という絵では、一人の女がストーブの煙突に手をかけているところが描かれているが、ベルティエ・ド・ソヴィニーは、「こんなことができるからには、ストーブの火はほとんど消えかかっているにちがいない」と推量し、この『デッサン塾』では「暖房も相当に倹約している」と結論している。

このように、マルレの絵は、たしかにドーミエのような芸術的価値はないにしても、時代の風俗を「スナップ・ショットのような形で生のままの姿をとらえて」いるので、眺めているうちに、当時のパリの街の喧噪(けんそう)が聞こえ、生活臭がただよってくるような錯覚にとらえられる。そして、さながらタイム・マシンで十九世紀前半のパリの街に時間旅行したような気分になってくる。そう、『タブロー・ド・パリ』は、まさしく、マルレと、ベルティエ・ド・ソヴィニーが、力を合わせて我々のために作ってくれたタイム・マシンにほかならないのだ。しかも、この時代にはまだ、いかなる形であれ、写真というものは登場していなかったから、バルザックの時代に時間旅行するには、これ以上のタイム・マシンはほとんど存在してはいない。また、この石版画集が編まれてから約三十年後に、パリの街はセーヌ県知事オスマンによって、完膚無きまでに破壊しつくされるから、背景にパリの街を細かく描きこんである本書は、都市のトポグラフィーの面でも、比較のしようのない貴重な資料となっているのである。

いずれにしろ、本書は歴史を旅するとはいかなることかを教えてくれるという意味において、フランスの十九世紀に興味のあるなしに拘(かかわ)らず、歴史好きの読者すべてにとって、かならずや座右の一冊となるにちがいない。

【この書評が収録されている書籍】
歴史の風 書物の帆  / 鹿島 茂
歴史の風 書物の帆
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(368ページ)
  • 発売日:2009-06-05
  • ISBN-10:4094084010
  • ISBN-13:978-4094084016
内容紹介:
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・… もっと読む
作家、仏文学者、大学教授と多彩な顔を持ち、稀代の古書コレクターとしても名高い著者による、「読むこと」への愛に満ちた書評集。全七章は「好奇心全開、文化史の競演」「至福の瞬間、伝記・自伝・旅行記」「パリのアウラ」他、各ジャンルごとに構成され、専門分野であるフランス関連書籍はもとより、歴史、哲学、文化など、多岐にわたる分野を自在に横断、読書の美味を味わい尽くす。圧倒的な知の埋蔵量を感じさせながらも、ユーモアあふれる達意の文章で綴られた読書人待望の一冊。文庫版特別企画として巻末にインタビュー「おたくの穴」を収録した。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

タブロー・ド・パリ / ギョーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー, ジャン=アンリ・マルレ
タブロー・ド・パリ
  • 著者:ギョーム・ド・ベルティエ・ド・ソヴィニー, ジャン=アンリ・マルレ
  • 翻訳:鹿島 茂
  • 出版社:藤原書店
  • 装丁:大型本(180ページ)
  • 発売日:1993-02-01
  • ISBN-10:4938661659
  • ISBN-13:978-4938661656
内容紹介:
国立図書館に150年間眠っていた石版画を、19世紀史の泰斗が発掘出版。人物・風景・建物ともに微細に描きだした、第一級資料。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

機

機 1993年2月1日

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
鹿島 茂の書評/解説/選評
ページトップへ