書評
『風景画の病跡学―メリヨンとパリの銅版画』(平凡社)
ある国のある時代を象徴するような人物がそろって同じ年に生まれるという偶然を歴史は何回も経験している。たとえば、一八二一年という年は、フランスにとって、ボードレールとフロベールが生まれた年として記憶されるだろう。このふたりの文学者は、くしくも一八五七年に、処女作にして代表作である『悪の華』と『ボヴァリー夫人』がともに官憲から風俗壊乱の罪で起訴されるという運命までともにしている。ところで、この一八二一年には、もうひとり、十九世紀のフランスを、とりわけパリを象徴するような人物が生まれている。それはボードレールが称賛してやまなかった銅版画家、シャルル・メリヨンである。メリヨンは、オスマンが大改造を企てて破壊してしまう以前のパリを、ボードレールと同じように自己の内面の苦悩の投影として描き、一部では高い評価を与えられているが、日本では、作品はもとより、狂気へと至ったその謎の生涯もほとんど知られていない。
気谷誠氏の『風景画の病跡学――メリヨンとパリの銅版画』は、このメリヨンの銅版画を細部にわたって検討することで彼の妄想がどのように投影されているかを読み解くと同時に、メリヨンの作品がそれ以前のパリの風景画の中でどれだけ独自の位置を占めるかをあきらかにした画期的な労作である。
気谷氏の方法のユニークな点は、メリヨンの銅版画を過去や同時代のパリ風景画と照らし合わせることによって、メリヨンの本当の独自性、いいかえれば、狂気に近い彼の寓意がどこにあるのかを浮かび上がらせることにある。つまり、素人が見ると、いかにもメリヨン独特の構図や点景と見えるものが、じつは、過去のパリ風景画の典型的な構図であったり、伝統的な演劇的仕草であったりするのだが、気谷氏は、こうした引用的要素を様々なレフェランスを重ね合わせることによって根気よく暴き出し、最後に、メリヨンの狂気の原因となったオブセッションの投影されている箇所を、それらの引用の中に、あるいはその外に、ずばりと指摘する。
たとえば、「屍体公示所」という銅版画は、シテ島にあったモルグに溺死人(できしにん)が運びこまれる光景を描いたものだが、溺死人を運ぶ人夫や叫び声をあげる女性は、すべてラファエロを始めとする過去のキリストの埋葬の図からの引用である。さらにモルグという言葉は、ポーの『モルグ街の殺人』をレフェランスにしている。そして、こうした引用は、すべて、メリヨンにとって、ひとつの寓意、「キリストの姿に自らを託したこの芸術家の悲劇」を表出するためのテクストとして機能する。
また、この版画の画面左に鋭く差し込む影は、じつは同時代に初めて登場した写真の影響によるものであるという指摘も興味深い。写真はメリヨンに、こうした陰影の強調や、「ポン=ヌフ」に見られるように、それまで絵にならないと思われていた風景が意外に優れた構図になることを教えて、名所絵の絞切り型の遠近法からの脱却をうながす。
いずれにしても、こうした分析はメリヨンやパリ風景画の優れたコレクターである気谷氏がそのコレクションを徹底的に見詰めることによって初めて可能になったものであり、結論の悲劇性にもかかわらず、本全体には、愛する対象を論じることの幸福感が満ちている。
【この書評が収録されている書籍】
気谷誠氏の『風景画の病跡学――メリヨンとパリの銅版画』は、このメリヨンの銅版画を細部にわたって検討することで彼の妄想がどのように投影されているかを読み解くと同時に、メリヨンの作品がそれ以前のパリの風景画の中でどれだけ独自の位置を占めるかをあきらかにした画期的な労作である。
気谷氏の方法のユニークな点は、メリヨンの銅版画を過去や同時代のパリ風景画と照らし合わせることによって、メリヨンの本当の独自性、いいかえれば、狂気に近い彼の寓意がどこにあるのかを浮かび上がらせることにある。つまり、素人が見ると、いかにもメリヨン独特の構図や点景と見えるものが、じつは、過去のパリ風景画の典型的な構図であったり、伝統的な演劇的仕草であったりするのだが、気谷氏は、こうした引用的要素を様々なレフェランスを重ね合わせることによって根気よく暴き出し、最後に、メリヨンの狂気の原因となったオブセッションの投影されている箇所を、それらの引用の中に、あるいはその外に、ずばりと指摘する。
たとえば、「屍体公示所」という銅版画は、シテ島にあったモルグに溺死人(できしにん)が運びこまれる光景を描いたものだが、溺死人を運ぶ人夫や叫び声をあげる女性は、すべてラファエロを始めとする過去のキリストの埋葬の図からの引用である。さらにモルグという言葉は、ポーの『モルグ街の殺人』をレフェランスにしている。そして、こうした引用は、すべて、メリヨンにとって、ひとつの寓意、「キリストの姿に自らを託したこの芸術家の悲劇」を表出するためのテクストとして機能する。
また、この版画の画面左に鋭く差し込む影は、じつは同時代に初めて登場した写真の影響によるものであるという指摘も興味深い。写真はメリヨンに、こうした陰影の強調や、「ポン=ヌフ」に見られるように、それまで絵にならないと思われていた風景が意外に優れた構図になることを教えて、名所絵の絞切り型の遠近法からの脱却をうながす。
いずれにしても、こうした分析はメリヨンやパリ風景画の優れたコレクターである気谷氏がそのコレクションを徹底的に見詰めることによって初めて可能になったものであり、結論の悲劇性にもかかわらず、本全体には、愛する対象を論じることの幸福感が満ちている。
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