書評

『編集狂時代』(新潮社)

  • 2019/06/15
編集狂時代 / 松田 哲夫
編集狂時代
  • 著者:松田 哲夫
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(471ページ)
  • 発売日:2004-04-00
  • ISBN:4101480214
内容紹介:
名物編集者・松田哲夫ができるまで。印刷物マニアで映画好きのオタク少年が、漫画雑誌「ガロ」を知り、編集という仕事に出会って筑摩書房に入社。気になる書き手と本作りを企画してヒット作を連発、雑誌を創刊して挫折するが、その失敗がまた新たな企画に…。好きなことを仕事にしてきた男の爽快な半生記。面白いことを伝えたい―そのヨロコビが編集を知らない人にも伝わってくる。

“オタク力”が発揮する編集術

これまで星の数ほど自伝や半生記が書かれているが、このタイプの人間のことが本人自身によって内側から活写され、本として世間に露出したのははじめてじゃあるまいか。といっても、冷血鬼や変質者ではない。レッキとした出版社の腕っこきの編集者で、今では重役の席にも連なっているという(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。

オ・タ・ク、である。

第一章にのっけから登場する「ある老人の話」を読むと、もう本を置くことが出来ない。その老人は、元銀行員で、銀行員の時から駅のゴミ箱をあさって新聞紙を拾っていたそうだ。「より細かく彼の作業に注目してみると、ゴミ箱からつまみだしたものの紙誌名や発行日に目を通し、面数をしめすノンブルをチェックし、綺麗にたたんで紙袋に収めていく」。目的は切り抜きである。銀行時代に窓際に追いやられたのがキッカケだそうだが、それ以後、三十年以上も新聞をていねいに拾っては切り抜く。音楽関係をよく切り抜くのは音楽が趣味だからだが、鑑賞法は独得で、「ストップウォッチを必ず携えている。レコードであろうと、FMラジオであろうと、コンサートであろうとである。そして、各小節や歌曲ごとの時間を秒単位までのメモをとり、後で他の演奏と時間の差を比べてみるのだ」。

「かくして、もよりの駅のゴミ箱から、次々と新聞紙は運びこまれ、家のなかのありとあらゆるところに、うず高く積まれ続けている」。一高・東京帝大を出て銀行につとめ、やがて新聞紙とストップウォッチに行きついたこの老人の次男として生まれ、うず高い新聞紙の間で育った松田哲夫は、どうやってこの世を渡ってゆけばいいのか、誰だって心配になる。

M田君の少年時代は父の血の確認から始まる。メンコ、牛乳のフタ、マッチのレッテル、何であれ刷り物に目がなく、路上でマッチの箱を見つけると、「泥がこびりつき、水に濡れていたりすると、後髪をひかれる思いで見送る。しかし、しばらく歩いた後で、やはり惜しくなり、チリ紙に包んで持ち帰り、ひなたで乾かし、アルコールでさっとふき、爪でザラつきを直して、コレクションに加える」。こうした刷り物へのマニアックな関心はしだいにマンガへと広がり、スクラップをためては自分で製本して保存し、書棚には一冊も本になっていない無名のマンガ家の作品集が勢ぞろいする。

こうしてかの老人の子供らしくスタートした彼が、かの老人と別の道へと脱け出たのは、二つのきっかけからだった。一つは結婚で、相手の迷惑を考え、コレクターの袋小路から脱出できた。愛は蒐集(しゅうしゅう)より強し。

もう一つのきっかけこそがこの本の読ませどころで、マンガへの関心が彼を救う。大学生になったM田青年は、このタイプに特有な、思い立つと妙に人おじしない性格のせいで『ガロ』編集部を用もないのに訪れ、ただ隅の方に座って日を過ごすうちに、やがて猫の手代わりに使われるようになり、水木しげるのところへ原稿取りに出かけては(水木しげるの回想によると、スルメのような男が来て用もないのに座っている、と映ったそうだ)長居をし、赤瀬川原平の新婚家庭に出向いては泊まりグセを発揮した(赤瀬川原平の回想によると、最長三週間、短くても二、三日。心底から腹が立ったが、御本人が問題の所在に全く気づいていないので言い出せなかった、という)。

自家製マンガ全集のM田少年は、マンガ原稿取り手伝いのM田青年になり、そのまま大学を中退し、やがてマンガの縁で筑摩書房のシリーズ『現代漫画』の編集アルバイトに入り、編集責任者の鶴見俊輔の下で異能を発揮する。たいていのマンガ家のほとんどの作品が頭に入っており、鶴見さんの要求と疑問には、ただちに答えることが出来た。もちろん、彼の場合、情報を集め整理する能力は本能に近い。この整理作業に方向性が与えられると編集というものになるが、この方向性の付与というポイントを鶴見さんに教えられる。

そして、正社員となり、『ちくま文庫』を生み、『ちくま文学の森』を出し、気がつくと編集担当の重役になっていた。

著者は二代にわたる由緒正しきオタクとして出発するが、そのオタク対象を通してより広い世界へとつながり、オタク界から脱け出た。愛だけでなく、編集も蒐集より強かったのである。とはいえ編集という仕事は、書き手を集めて配列するのだから、オタクと似ているが。

オタクが自閉から脱け出て発揮する能力を“オタク力”と仮に言うなら、相撲界の貴乃花も将棋の羽生も、僕の目にはオタク力の持ち主と映る。何か今までの横綱や名人の力とはちがうでしょう。大量に発生しながらその消極面のみが語られてきた日本のオタクについて、はじめて内側から、脱出の契機とパワーが語られたのである。

オタクの道が、暗い一本道だけじゃないことが分かっただけでも朗報と言えるんじゃないか。

【この書評が収録されている書籍】
建築探偵、本を伐る / 藤森 照信
建築探偵、本を伐る
  • 著者:藤森 照信
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(313ページ)
  • 発売日:2001-02-10
  • ISBN:4794964765
内容紹介:
本の山に分け入る。自然科学の眼は、ドウス昌代、かわぐちかいじ、杉浦康平、末井昭、秋野不矩…をどう見つめるのだろうか。東大教授にして路上観察家が描く読書をめぐる冒険譚。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

編集狂時代 / 松田 哲夫
編集狂時代
  • 著者:松田 哲夫
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(471ページ)
  • 発売日:2004-04-00
  • ISBN:4101480214
内容紹介:
名物編集者・松田哲夫ができるまで。印刷物マニアで映画好きのオタク少年が、漫画雑誌「ガロ」を知り、編集という仕事に出会って筑摩書房に入社。気になる書き手と本作りを企画してヒット作を連発、雑誌を創刊して挫折するが、その失敗がまた新たな企画に…。好きなことを仕事にしてきた男の爽快な半生記。面白いことを伝えたい―そのヨロコビが編集を知らない人にも伝わってくる。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1995年2月14日

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