書評
『パンの歴史』(河出書房新社)
広く「現代」を考えさせる
パンといってもこの本の場合、主としてあの細長いフランスパン、バゲットを指している。うまいパンとは何か。皮がぱりぱりして、ナイフの切れ目が美しく、本体はクリーム色、歯ごたえは適度のねばりを伴い、全面、不揃いな気泡が出ている。そして、鼻と口いっぱいに広がるハシバミのような芳香。フランス料理にはいっこうに通じていない評者にも、これはわかる。ささやかなレストランで、上出来のバゲットがざくざく切って出され、一口試みたときの幸福感はたとえようもない。
著者はアメリカ人、米仏の大学や高等専門学校で歴史学の教授をつとめている。若いころパリに来て、フランスパンの魅力に取りつかれた。だが歴史家だから美味に酔ってばかりはいない。この主題ですでに二冊本を出した。
一九六〇年代、七〇年代、フランスのパンは史上類を見ないほど品質を落としたと著者はいう。昔の、たとえば十八世紀の、過酷な労働の成果としての「古き良きパン」と、巨大スーパーが最先端技術を駆使して送り出す「現代のパン」。この対立は食品業界全体の問題だろう。手づくりと大量生産、職人の超人的忍耐とオートマチズム。誇り高き個人商店と威圧的な大手業界。誰の目にも見えるこの構図を、「古き良きパン」に身を寄せすぎて眺めると、グローバリゼーションへの不信感ばかりが澱(おり)のように残る。
カプラン教授は奥方といっしょに六百軒ものパン屋をめぐり歩いて試食したという。偏った結論を出す人ではない。パン職人の家に生まれながら、上質のパンを大量に世界へ送り出す多角経営の企業主になったフランシス・オルデルを、著者は優秀なパンの作り手として認めている。職人気質を深く愛惜しながら、最新技術による大量生産でもいいパンが作れる、それが現代だ、とカプランは言っているわけだろう。
五百ページの大冊である。フランスのパンの浮沈は、かつて国家の浮沈につながった。この辺の消息を語った数十ページこそはまさに歴史家のペンに成るものだ。広く「現代」を考えさせる名著だといっていい。
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