書評

『フラゴナールの婚約者』(みすず書房)

  • 2022/06/10
フラゴナールの婚約者 / ロジェ グルニエ
フラゴナールの婚約者
  • 著者:ロジェ グルニエ
  • 翻訳:山田 稔
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(397ページ)
  • 発売日:1997-11-00
  • ISBN-10:4622046482
  • ISBN-13:978-4622046486
内容紹介:
現代フランス屈指の小説家による短篇傑作選。チェーホフ、フィッツジェラルドの世界に通じる、苦くて可笑しい20の物語。この一冊に今世紀を生きた男と女がいる。

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二葉亭四迷の最後の小説となった『平凡』はなんとも形容に困る作品だ。

最初の長編『浮雲』にはなんてったって「言文一致の起源」という名声がある。続く長編『其面影(そのおもかげ)』には明治知識人の内面の孤独が描かれていていわゆる「深み」がある。しかし『平凡』は読んで面白くなく、どこがいいのかさっぱりわからない。

『平凡』の主人公は作家なのに、いわば「外っ面」だけで生涯を送る。平凡な野心を持った男の平凡な人生。その平凡な人生を送る平凡な男を前にして作者は困惑し、読者と一緒に退屈する。わたしが当時の読者だったら、「だからどうした!」といいたくなるだろう。二葉亭の断固たる支持者だった漱石でさえ、『平凡』については口をつぐんでいるのである。

先日、ロジェ・グルニエの短編選集 『フラゴナールの婚約者』(山田稔訳、白水社)を読んだ。帯にある通り、チェーホフの世界を強く連想させる作品集だ。読んでいると「第六の戒律」の妻が夫を裏切る場面、「アルルカンの誘拐」の犬を連れて散歩する人たちとその登場の仕方、「三たびの夏」の主人公の湯治場行きと女との出会いはそれぞれみんなチェーホフの「犬を連れた奥さん」の名シーンを上手くとりいれていることがわかって、思わず微笑んでしまう。グルニエはチェーホフの評伝も書いているそうだから、よほど好きなのだろう。

チェーホフの小説の考え方はひとことでいうと「人間の生活にはふたつある。表面の生活と、外から見えないもう一つのほんとうの価値ある生活である」となる。小説はもちろん、その「もう一つのほんとうの価値ある生活」を発見するために書かれる。チェーホフ自身の言葉を使うなら、

だから彼は、表に見えるものを信ぜず、人は誰でも夜のとばりのように秘密のとばりにとざされていてこそ、その人間のほんとうの、なにより興味ぶかい生活がいとなまれているのだとつねづね思っていた。(『犬を連れた奥さん』松下裕訳、ちくま文庫)

この考え方は、読者を深く慰めるものだ。なぜなら、読者に「そうだ、わたしのこの見栄えのしない人生にも、その奥にもう一つ価値ある人生があるのかもしれない」とか「こんな平凡な人生の向こうに、なにかもっと畏ろしくも甘美な生活があるかもしれない」という期待を抱かせてくれるからである。そして作家には「平凡な人生」の向こうに「価値あるなにか」を見つけることこそが作家の仕事だという確信を抱かせてくれるから、チェーホフは好かれる。そう、チェーホフの考え方はいまもなお文学の王道なのである。

チェーホフは一八六〇年に生まれて一九〇四年に亡くなっている。二葉亭四迷の年譜を調べてみた。一八六四年に生まれ、一九〇九年に死亡。生年も享年もほとんど変わらない。ぼくが驚くのは、あれほど深くロシア文学に通じていたのに二葉亭がチェーホフに言及していないらしいことである。読まなかったのだろうか。それはほくにはわからない。しかし、二葉亭がチェーホフを読んだとしても彼は好意を抱こうとはしなかったかもしれない。

人生は見えるところにある限りの存在で、その奥にはなにもない。

これが『平凡』に秘められた思想である。人は文学に救いを求める。だが、二葉亭は「救いなんかあるもんか」といった。「人間は平凡に生きて平凡に死ぬ。それはただ退屈なだけだ」といった。それ故、二葉亭は文学の敵となったのである。

【この書評が収録されている書籍】
退屈な読書 / 高橋 源一郎
退屈な読書
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1999-03-00
  • ISBN-13:978-4022573759
内容紹介:
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

フラゴナールの婚約者 / ロジェ グルニエ
フラゴナールの婚約者
  • 著者:ロジェ グルニエ
  • 翻訳:山田 稔
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(397ページ)
  • 発売日:1997-11-00
  • ISBN-10:4622046482
  • ISBN-13:978-4622046486
内容紹介:
現代フランス屈指の小説家による短篇傑作選。チェーホフ、フィッツジェラルドの世界に通じる、苦くて可笑しい20の物語。この一冊に今世紀を生きた男と女がいる。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1996年9月6日~1998年4月24日

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