書評

『すべて真夜中の恋人たち』(講談社)

  • 2019/07/05
すべて真夜中の恋人たち / 川上 未映子
すべて真夜中の恋人たち
  • 著者:川上 未映子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(360ページ)
  • 発売日:2014-10-15
  • ISBN-10:4062779404
  • ISBN-13:978-4062779401
内容紹介:
「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」。わたしは、人と言葉を交わしたりすることにさえ自信がもてない。誰もいない部屋で校正の仕事をする、そんな日々のなかで三束さんにであった――。芥川賞作家が描く究極の恋愛は、心迷うすべての人にかけがえのない光を教えてくれる。渾身の長編小説。

光の体験

じつに孤独な主人公、「冬子」の物語である。社会と完全に切れてしまっているわけではない。しかしフリーランスの校閲者という仕事ゆえ、依頼先との最低限の連絡のみで、あとは終日、自室にひとり閉じこもって暮らすことができる。

元々は小さな出版社に勤務していたのだが、周囲とほとんど交流しない態度を続けるうち、会社自体にいづらくなってしまい、退職を余儀なくされた。小さなころから人づきあいが苦手だったとも述べられているが、その傾向は会社勤務を経ていっそう強まり、いわば純化されていったのである。

(……)気がつくとわたしはひとりぼっちになっていた。

たとえば毎年十二月、誕生日の夜も何もすることがなく、話す相手もいない。そこで真夜中、たったひとりで近所を歩いたりする。二十代で、冬子はそんなひっそりした生き方を半ば強いられ、半ば選び取ったのである。

そのまま三十過ぎまで来てしまった彼女が、自らの一種隠者のような日々を語る作品だから、出来事には乏しいし、登場人物もごく限られ、劇的な展開もあまりない。だが読んでいていささかも退屈ではない。それどころか、小さな声で語られる事柄のいちいちが胸に沁みとおるようで、純度の高い心理的な体験を共有する切なさが張りつめる。他人との会話のない毎日、やがて主人公は酒を飲むようになるのだが、味を楽しむわけではない、自らの神経に麻酔をほどこそうとするかのような呷り方が痛々しく迫ってくる。やがて突発的に、チラシで見たカルチャーセンターでの受講を決意した彼女は「冷たい日本酒をたっぷりいれた魔法瓶」を携帯し、トイレでがぶのみして勢いをつけ、何の必然性もなしに「世界の悲劇入門」の受講を申し込もうとする。

そんな風に要約してみると、ひたすら地味なヒロインの振る舞いには、けっこうコミカルな要素も含まれていることがわかる。しかしこの作品の素晴らしさは、どこといって恵まれたところのない主人公の生き方を喜劇的に描くのでも、悲劇として演出するのでもなく、時間の経過を静かに受け止めつつ、それを丹念に言葉にしていく誠実な、落ちついた姿勢にある。登場する人物の中には、自らの主張を整然と、滔々とまくしたてる才に長けた者もいる。だが主人公の言葉は決してなめらかに展開されてはいかない。必要な情報をまんべんなくちりばめながら相手に意見を開陳し押しつけるといった言語パフォーマンスとは根本的に異質な地点に、冬子は立っている。だからこそ、彼女の書きつける言葉には主張や説得の論理とは別の、ほとんど消え入らんばかりの真実さが宿るように思える。やがてこの作品は、彼女にとって紙に言葉を書くという行為自体のもつ意義にも触れることとなるだろう。

表題にあるとおり、こんな冬子が「恋人たち」のドラマを演じるという意外さによって、物語は中盤以降、大きな転回を迎える。しかし息をつめるようにして読みながら、読者はそこで語られている経験を「恋」と呼んでしまっていいものかどうかためらいを覚えるかもしれない。すべてはあまりにかすかで、実体を欠き、脆弱にふるえているように思える。しかしそのふるえのうちに主人公の人生上の、困難ではあれ、貴重な変化の兆しが含まれていることが伝わってくる。

自らと同じくらい寡黙で恥じらいぶかい高校教師の男と、冬子は何度か、他にあまり客のいない喫茶店でさしむかいの時間を過ごす。互いに黙々とうつむき、コーヒーを飲み、とぎれがちな会話を交わす。それはまるで、ただわずかばかりの時間を共有するという感覚を味わうための儀式であるかのようだ。ポロシャツの胸ポケットに何本もぺンをさした教師は、その儀式に応じることで、冬子にとって特別な人となっていく。実際、喫茶店を出たとき、ポロシャツ姿の中年男の背中は彼女の目に「うっすらと白く発光しているようにみえた」のである。恋というよりも、その「光」こそが彼女の求めるものであるらしい。淡々と「真夜中」を生きることに甘んじながらも、光るものに魅かれる気持ちを捨て去ることはできないのだ。

とらえがたい背中の光に心を奪われた冬子の想いは、どういう葛藤や困難をたどっていくのか。読者は、人と人との一見これほどささやかなふれあいが、存在を大元から揺るがす意義をもつ、まぎれもない事件となりうることに驚かされるだろう。そして「書くこと」は、その事件の彼方に、これもまた一つの光の体験として現れてくるのである。夜中にふと起き出した冬子は、何者かにうながされるようにしてノートの白いページを開き、自分にとっても思いがけないある言葉をそこに記す。

わたしはその文字とも文章ともつかない言葉をうすぼんやりとした光のなかでじっと眺めた。

自らのこれまでの人生を客観的に眺め、それを言語化する力をヒロインが得たのではないかと考えるならば、ここに物語自体の美しい結論を見出すことができる。しかし同時に、それは「目的のない、何のためでもない言葉」であり、「わたしの胸にやってきてそれから消えようとはしない」のだとも強調されている。物に色があるように見えるのは、吸収されずに残った光が反射された結果なのだと、高校教師は冬子に教えてくれた。言葉もまた、光線なのかもしれない。消えようとしない言葉に目を注ぐ冬子は、世界と向き合い、世界をいつくしむ姿勢を確かに身につけている。

デビュー以来、自在な文体を操って華やかに話題作を発表し続けてきた著者だが、それらの作品とはかなり様相を異にする、静謐なたたずまいの小説である。もちろん、主題上の一貫性や連続性を見て取ることはできるだろう。しかしここにはやはり、大きな跳躍があるのではないか。一度、小説世界をその最小構成要素にまで切りつめて言葉を洗い直そうとするかのような、ひそかな、決然とした意志によって支えられた佳品にちがいない。
すべて真夜中の恋人たち / 川上 未映子
すべて真夜中の恋人たち
  • 著者:川上 未映子
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(360ページ)
  • 発売日:2014-10-15
  • ISBN-10:4062779404
  • ISBN-13:978-4062779401
内容紹介:
「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う」。わたしは、人と言葉を交わしたりすることにさえ自信がもてない。誰もいない部屋で校正の仕事をする、そんな日々のなかで三束さんにであった――。芥川賞作家が描く究極の恋愛は、心迷うすべての人にかけがえのない光を教えてくれる。渾身の長編小説。

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