書評
『ベイスボイル・ブック』(新潮社)
野球小説の正しい書き方
日本ファンタジーノベル大賞をとった井村恭一の『ベイスボイル・ブック』(新潮社)を読んだ。一言でいうと、素晴らしい。それは、ここには野球小説の「正しい」書き方が存在しているからだ。あるいは、ただ、小説の「正しい」書き方が存在しているからだ。それからついでにいうと、「正しい」だけじゃなくて、ほんとに面白いのだけれど。では、野球小説の「正しい」書き方とはなんだろう。そのことを説明する前に、野球小説には二つのタイプがあることをいわねばならない。すなわち、「野球」小説と野球「小説」である。「野球」小説は「野球」について書かれた小説で、野球「小説」は野球について書かれた「小説」である――あっ、これじゃあさっぱりわからないか。
まず、「野球」小説である。これは「野球」をテーマにしている。大事なのは「野球」である。「野球」にはいろいろな要素がある。選手とかゲームとか選手の家族とかチームとかそれぞれにまつわるストーリイとかその他いろいろがそこでは書かれる。代表的なのは、水島新司の『あぶさん』である。えっ? あれはマンガじゃないかって? マンガだっていいのである。この場合、重要なのは「野球」をテーマにして描くということで、ほんとのところがそれが、小説だろうがマンガだろうが映画だろうがぜんぜんかまわない。だから、『あぶさん』を「野球」小説の方に分類したって、間違いではないのである。この考え方を推し進めていくと、「犯罪」小説や「SF」小説や「恋愛」小説や「歴史」小説の大半は下半分の小説の部分を映画やテレビやマンガに置き換えたって問題はないことになってしまう。でも実際そうじゃありませんか。
さて、「 」が移動しただけの野球「小説」はどこが違うのであろうか。もちろん、ぜんぜん違うのである。こちらは野球をテーマにした「小説」である。すなわち、重要なのは「小説」であることであって、ほんとうは野球がテーマじゃなくたってなんの問題もないのである。例を挙げよう。フィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』。ロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』。そうそう、ジャパンの作家タカハシゲンイチロウ氏の『優雅で感傷的な日本野球』。みんな、野球「小説」であり、決して「野球」小説ではないのである。
じゃあ、ウィリアム・キンセラの小説はどうなんだって? 簡単だよ。映画化されたことを見ても「野球」小説であることは明白ではありませんか。
ところで、わたしは野球「小説」で重要なのは「小説」であると書いた。ふつうならここで説明を終えてしまうところである。でも、まだ問題が残っている。その「小説」ってのはなにかってことである。
そういう重大問題を解くにはこの少ない紙数では足りない――なんてことをいうのはまともに考えたことがない人だけである。いくら短くたっていえることはいえるのだ。
「小説」には、この世界にはルールがある、けれどもその根拠は誰も知らない――ということが書かれている。カフカの『変身』には、朝起きるとただの人が虫に変わるというルールがある世界のことが書かれている。そして、これがもっとも単純かつ純粋な「小説」の形なのである。
カフカの作品は素晴らしい。けれども、あまりに純粋すぎてなあという作家は、もう少し目に見えるルールのことを書くことにした。たとえば、野球。それは目に見える形になったルールそのものではないだろうか。
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