書評
『エミシとは何か―古代東アジアと北方日本』(角川書店)
穴と樹上に住んだ蝦夷(えみし)の心
古代の日本列島の北と南に勢力を張っていた蝦夷(エミシ)と隼人(ハヤト)。彼らはいったい何者だったのか。南の隼人の方は薩摩隼人という言い方が今も残るし、薩摩の剽悍(ひょうかん)な武人や示現流の“チェストー”の叫び声などをとおしてその存在をなんとなくイメージできるのだが、北の蝦夷については陸奥蝦夷という言葉もなければその伝統を誇って今に伝えるということも聞かない。『日本書紀』などの古(いにしえ)の歴史書や『万葉集』をはじめとする古代文学にひんぱんに登場しながらやがてどこかへ消えてしまった蝦夷の謎についてのシンポジウムの記録である。例年、古代史をテーマにしたシンポジウムが開かれ、その都度、角川選書におさめられ、これまでも『古代の祭式と思想』『巨大古墳と伽耶文化』といった充実した成果が古代史ファンに届けられているから、ファンの一人として期待してページを開いた。
まず、蝦夷という言い方についての中西進の説明に目からウロコが一枚落ちる。オドロオドロしい言い方だとは感じていたが改めて意味を考えたこともなかったからだ。
蝦はガマガエルという字で、その次に夷狄(いてき)を表す夷という字を書いています。ガマガエルの野蛮人というのが蝦夷の字です。
エビやカニに近い字だと思っていたが、ガマガエルだったのか。中西は、「蝦夷と呼ばれる人たちはガマガエルをトーテム(精霊)とする人たちだったのではないか」と推測を進める。縄文土器の飾りに使われている動物はヘビとカエルが圧倒的に多いことを知っていると、この説明は納得がゆく。
彼らが狩猟採集の民であり、狩猟採集民の常として呪術に支配された世界を生きていたことは容易に察することができるが、それ以上の暮らしの実態についてはなかなか分からないらしい。それでも、『日本書紀』や『万葉集』に拾うと、「椎結(かみをわ)け身を文(入れ墨)け」、「猪鹿の裳(えびころ)を着」、「田をつくらず、衣(きぬ)おらず、猪鹿を逐ふ」。そして「刀を弄(もてあそ)ぶこと、雷光(いなびかり)の撃つがごとし」であり、獲物の「血を飲む」。
僕が一番気に入ったのは、彼らの住まいについての記述で、『日本書紀』景行天皇四十年七月十六日の条。
冬は穴に宿、夏は樔に住む。
冬の穴はタテ穴かヨコ穴かは知らないが穴居生活であり、夏の樔(す)は樹上生活。穴居はともかく、樔については疑う説もあるそうだが、僕としては本当と思いたい。南方には樹上生活を行う民が今もいるし、高床式住居の一つと考えればそんなにヘンではない。
蝦夷という語感から鈍重で地をはいまわり、追われると穴に逃げ込む土蜘蛛(つちぐも)のような暗い印象をこれまで持っていたが、夏は樹上に家を作って住んでいたと知って、イメージは一気に好転した。日本列島の山野を自在に駆け巡り、必要に応じて熊のように穴にも住めばワシや大フクロウのように樹上にも住む剽悍(ひょうかん)な狩人だったのである。
蝦夷が本当に現在の人間から見て魅力を覚えるのは穴と樹上に住んでいた頃までで、やがて稲作が伝わって樹上から下り、大和朝廷の版図に組み込まれて税を納めるようになり、仏教によって教化されてヒキガエルを忘れるようになる。
蝦夷が蝦夷でなくなる過程が始まるわけだが、この過程も歴史の研究としてはそうとう面白いらしい。
田辺昭三は稲作の北進について語る。北九州に稲作が入ってから早い時期、弥生時代前期にすでに弘前に大水田地帯(砂沢、垂柳遺跡など)が姿を現すが、
しかし、それに伴う稲作農耕文化を示す遺物は見られません。例えば鉄器や青銅製のお祭りに使う道具などといった弥生文化を代表するようなものはほとんど認められていないのです。稲だけがポツンと来ているという大変おもしろいことが砂沢遺跡の発見によってわかりました。
大和朝廷の東北進出については村井康彦の指摘でウロコが落ちた。蝦夷の地に先兵として送り込まれて定住に成功した屯田村にはヒキガエルの呪術(じゅじゅつ)と対抗する宗教的な支えが必要になるが、そのための神が鹿島神宮の神様だったという。ちなみに隼人の呪力には宇佐神宮が相手。
ここまで書いて急に思い出したが、僕の生まれ育った信州の村は諏訪大社の地元で、筆頭神宮の守矢家があり、村人は明治の頃まで守矢家を中心に蟇目講(ひきめこう)という結社を作り、守矢家の当主は蟇目の呪術をよくした、と聞いているし、今でも正月の元旦に諏訪大社で最初に行われる祭祀は生きたカエルに矢を刺して神前に献ずることである。
穴と樹上に住んだ蝦夷の心は今でも日本列島の山と森の中に息づいているのかもしれない。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする







































