書評

『カンガルー日和』(講談社)

  • 2019/07/24
カンガルー日和 / 村上 春樹
カンガルー日和
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(252ページ)
  • 発売日:1986-10-15
  • ISBN:406183858X
内容紹介:
時間が作り出し、いつか時間が流し去っていく淡い哀しみと虚しさ。都会の片隅のささやかなメルヘンを、知的センチメンタリズムと繊細なまなざしで拾い上げるハルキ・ワールド。ここに収められた18のショート・ストーリーは、佐々木マキの素敵な絵と溶けあい、奇妙なやさしさで読む人を包みこむ。
村上春樹の小説の魅力は、何よりもまずその語り口にある。語り手は〈僕〉であり、その背後には大抵音楽が聞えるからちょうど〈僕〉のディスク・ジョッキーを聴いているような気分になる。しかも、川本三郎が『風の歌を聴け』の批評で指摘したように、作品の真の主人公は多くの場合、言葉そのものだ。

その意味で、村上春樹がマヌエル・プイグの小説に強い関心を示したのも当然と言える。つまりプイグの作品の主人公は、常に言葉自身なのである。また、音楽、映画を巧みに取り入れ、軽い文体を作っていることも二人に共通しているのだが、興味深いのは、それをマスメディアとの関わりという風に見れば、〈ブーム〉以後のラテンアメリカ作家たちに共通して見られる特徴でもあることだ。その背景には、経済成長にともなう近代化、都市化、中間層の増大があり、それらが村上春樹の作品同様、彼らの作品に〈世界的共時性〉を与えていることも見逃せない。ラテンアメリカの新しい小説の多くは、日本の読者の期待に反して(?)、少しも〈土俗的〉ではないのだ。二十年代のブエノスアイレスの発展が生んだボルヘスは、その先例にすぎない。

『中国行きのスロウ・ボート』に次ぐ短篇集『カンガルー日和』に収録された作品は、前者の作品よりもはるかに短いため、語りの要素が一層重要であり、ほとんどそれだけで読ませると言っていいだろう。例によって、カンガルーをはじめ、羊、あしか、鴉、かいつぶりといった動物もしくはその名が盛んに現れる寓意的な作品が多く、また著者もあとがきで触れているように、長篇『羊をめぐる冒険』の進行過程で生れたと思われる作品が含まれている。

中では表題作の「カンガルー日和」が最もまとまっていると思う。若い夫婦が、〈バナナフィッシュ日和〉ならぬ〈カンガルー日和〉に、カンガルーの赤ん坊を見に動物園に出かけ、檻の前で会話を交わすという、ただそれだけの話なのだが、注目に値するのは、カンガルーの関係に対する主人公の見方である。檻の中には赤ん坊と雄のカンガルーの他に、同じような雌が二匹いた。それを彼はきわめて奇妙なことと考えるのだ。このモチーフは、第一短篇集中の「カンガルー通信」のそれでもある。〈僕〉はカンガルーの関係を人間関係になぞらえ、母親でない雌を〈ミステリアス〉な存在として捉えるのだが、この曖昧性は実は『1973年のピンボール』の〈僕〉と双子の娘の関係をはじめ、村上春樹の小説における男女関係の多くにも見られるのである。結局謎は解決されず、読者は宙吊り状態に置かれるのだが、もはや常套句になってしまったこの〈宙吊り〉が、春樹の世界のメタファーであることは言うまでもない。

巻末の「図書館奇譚」は、六回にわたる〈連続ものの活劇〉として発表されたものであり、〈羊男〉の登場する活劇ということで、『羊をめぐる冒険』を想わせる。主人公の〈僕〉は、図書館の地下室で不思議な老人と羊男に捕われ、脳味噌を吸われそうになるのだが、どこからともなく現れた啞の美少女と羊男に助けられて外に出るというストーリーは、童話そのものと言っていい。

構造は『不思議の国のアリス』を下敷にしているようでもあり、図書館と地下迷路はボルヘスを連想させ、途中、〈僕〉がオスマン・トルコ収税吏になるあたりは、バースの『キマイラ』に通じるところがある。要するに、村上春樹もまた、ポスト・モダニズムとどこかでつながっているのであり、それが、ちょっと大仰な気もするが、〈世界的共時性〉ということなのだろう。バースの作ったポスト・モダニストの名簿の中にはボルヘスとともにガルシア=マルケスの名が載っている。とすれば、いささか唐突だが、わが国の村上春樹と中上健次は、その名簿を介して結びつくといえはしまいか。

「彼女の町と、彼女の緬羊」、「5月の海岸線」の二つは、『羊をめぐる冒険』の断片と呼べる作品である。前者は札幌、後者はおそらく芦屋を舞台にしているのだが、実を言うと一番気になったのが、『カンガルー日和』の中ではいささか異質な感じのする後者である。つまり、他の作品はフィクション性が強いのに対し、この作品では作者の生の声が聞えるのだ。友人の結婚式に出るため、十年ぶりに故郷に戻った主人公が、海に行ってみると、海岸は埋め立てられて消えていた。その光景を前に〈僕〉の回想が始まる。王貞治が甲子園で優勝投手になったことや、プレスリー、ニール・セダカを経て、回想は幼い友人が溺死した六歳のころにまで遡る。主人公は思春期を海岸との触れ合いの中で過したのだ。その海岸は彼の心象の原風景にちがいない。六〇年代は、海岸が次々と消えていった時代でもあった。京浜地区でも潮干狩や海水浴で知られた海岸の代りに、工場や住宅が立ち並ぶようになった。私的なことを言えば、かつて波が打ち寄せていた本牧の三景園の望楼の下から工業地帯が始まっているのを知ったときのショックは今でも忘れられない。時代の一事件に過ぎない芦屋海岸の消失を村上春樹はどう受け止めたのだろう。その消失の風景は、『羊をめぐる冒険』の中でもほぼ同じ形で語られている。

村上春樹にとり、六八年体験はきわめて大きな意味を持っているだろう。だがそれは、自然と結びついた記憶ではない。彼にとっての東京は、最初から乾いた都市であった。しかし彼の文体の背後には、とりわけ芦屋を語るとき、叙情的なもの、ウェットなものが、ぼくには感じられる。それが何かを断定することは難しいが、失われた海岸の原風景ではないかという気がする。村上春樹もまた、六〇年代に故郷喪失者となったのである。
カンガルー日和 / 村上 春樹
カンガルー日和
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(252ページ)
  • 発売日:1986-10-15
  • ISBN:406183858X
内容紹介:
時間が作り出し、いつか時間が流し去っていく淡い哀しみと虚しさ。都会の片隅のささやかなメルヘンを、知的センチメンタリズムと繊細なまなざしで拾い上げるハルキ・ワールド。ここに収められた18のショート・ストーリーは、佐々木マキの素敵な絵と溶けあい、奇妙なやさしさで読む人を包みこむ。

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初出メディア

海(終刊)

海(終刊) 1984年1月1日

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