書評

『喜びへの希望』(新評論)

  • 2019/08/31
喜びへの希望 / ジャン・ドリュモー
喜びへの希望
  • 著者:ジャン・ドリュモー
  • 翻訳:西澤 文昭,永見 文雄
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(722ページ)
  • 発売日:2019-06-13
  • ISBN:4794811233
内容紹介:
古代から近代まで、西洋の文物と科学を刺激し続けたキリスト教的「幸福=天国」観の生成と解体。宗教的心性史研究の金字塔

「天国」をめぐる心性史が語るもの

前世紀末頃から、飢饉(ききん)よりも肥満で、疫病より老化で、戦死よりも自殺で亡くなる人が多くなったという。それなら、楽園のような世界が実現しつつあるのだろうか。だが、誰もそのような期待などいだいていないように思われる。

本書は『楽園の歴史』三部作の最終巻にあたり、I「地上の楽園」、2「千年の幸福」を受け継ぐ3「喜びへの希望」である。I巻は「エデンの園」探しをめぐる人類の営みをたどり、2巻は「至福千年説」という異端思想が底辺にひそみながら、時代の節目に過激な社会運動として現れる姿を跡づけた。著者の旧作『恐怖心の歴史』に始まる遠大な研究計画の終着点になる3巻は「私たちは幸福を見ることができるだろうか」という課題の試みでもある。

ベルギーの古都ゲントの聖バヴォン大聖堂には「神秘の子羊」とよばれる多翼祭壇画がある。その前に立ったとき、著者ドリュモーは眩暈(めまい)を感じたという。木立に囲まれた天国の草原が拡(ひろ)がり、後方には建物がそびえ立ち、天のエルサレムを思わせるらしい。中央には神の子羊が人々に崇(あが)められ、キリスト教における楽園のテーマを集大成する美しい絵である。ダンテ『神曲』の「天国篇」には天球と至高天をむすびつける天の体系が語られており、キリスト教化された天国の姿は長い間いくどとなく詩と図像に描かれてきた。

天のエルサレムを待望する人々は、やがて「地上の楽園」と「天国」を同一のものと見なすようになる。そこにある「天国」は光、色彩、芳香に彩られており、光のような金はキリスト、聖母、聖人たちの背後で輝く色となる。それとともに、青がことさら高貴な色として重んじられるようになり、聖母の衣服の色となった。現代でもフランス人にはもっとも好ましい色らしい。ともあれ、このような「天国」にあって、選ばれた者たちの魂は神を一対一で見ることができるのであり、そこで幸福にひたるという。

すでに中世末期には、地上の俗なるものが天上の聖なるものに侵入する。かつては宇宙の調和によって生まれる「天の音楽」があり、感覚を奴隷となし魂を無気力にする「世俗の音楽」があり、対立していた。だが、楽器が増加し改良されると、「奏楽の天使たち」の姿が目立つようになる。十六世紀になり、ローマ教会が危機感をつのらせると、その姿は消え去る。天は人間的でなくなり、ひたすら聖なるものになる。それは大きな変化であった。バロック期になると、丸天井、遠近法、だまし絵によって天使と聖人は天の高みに吸い上げられていく。だが皮肉なことに、華麗なる装飾とともに、教会そのものが天国のごとき場所になるのだった。

近代以降、楽園の待望はどうなるのか。天国について語られることは少なくなり、色彩と形を失っていく。太陽王ルイ14世の時代、地上の君主国が全能の神の図像・シンボル・メタファを横取りし、太陽を象徴と見なすようになったという。その背景には、地動説という「新しい天文学」と「キリスト教信仰」の折り合いをつける問題があった。色彩豊かな天国は断ち切られ、永遠の幸福をめぐる信仰に脱構築され、信仰絶対主義が生まれる。そこでは愛(いと)しい人と再会したいという素朴な願望が叶(かな)うかもしれないのだ。

一見すれば、「楽園の歴史」など現代にそぐいそうもない。だが、「天国」をめぐる心性史をたどれば、人類の根底にある感受性が浮かび上がってくる。さすがに、碩学(せきがく)の巨匠には歴史の核心が見えているのだ。
喜びへの希望 / ジャン・ドリュモー
喜びへの希望
  • 著者:ジャン・ドリュモー
  • 翻訳:西澤 文昭,永見 文雄
  • 出版社:新評論
  • 装丁:単行本(722ページ)
  • 発売日:2019-06-13
  • ISBN:4794811233
内容紹介:
古代から近代まで、西洋の文物と科学を刺激し続けたキリスト教的「幸福=天国」観の生成と解体。宗教的心性史研究の金字塔

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2019年8月18日

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