書評
『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』(青土社)
危機管理者の「復古」への情熱
天明の大飢饉(だいききん)があった。浅間山が噴火した。一七八八年には京師(京都)の十分の九を大火が焼き尽くした。天明二年から八年にかけて、わずか六年の間に相次いだ天変地妖である。医師の杉田玄白はその同時代を「災害のディスクール(言説)」で語ったという。なぜなら火事も洪水も、それをなんらかのディスクールで記述しなければ只(ただ)の物理現象にすぎないからだ。災害のディスクールは恐怖を喚起する。すると混乱を境界づけて「治」をもたらす「官」の役割が要請される。これを機会に改革を。そこで日程に上がるのが「寛政の改革」だ。
改革の立て役者は元白河藩主松平定信。世評はおおむね芳しくない。思想統制と風紀取り締まり。強行策が裏目に出た場合の小心ぶり。田沼意次(おきつぐ)のように積極的な海防策は講じなかった。海防に関心を寄せはしても、まずは谷文晁(たにぶんちょう)に海岸線を描かせてそれを「見」た。新機軸を打ち出さず、復古主義の名の下に、もっぱら見、(古典を)学び、集めた。改革はまず視覚改革だったのだ。
だからこの男の復古の情熱には際限がない。彼は生涯に源氏物語全巻を七回自筆筆写した。五つの庭園を造った。焼亡した京師の復興プランは主上(天皇)とのかけひきのなかで主導権をにぎり、人工的に復古を強調するあまり、京の町は生命力をうしなって亡霊じみた書き割りと化した。
そういえば彼が老中として補佐した当代の将軍家斉(いえなり)も、京師の対抗者たる兼仁(ともひと)(光格天皇)も、血統の正統性においていずれも相対的に稀薄な出自だった。応じて時代そのものがヴァーチャルな模型の趣を帯びた。だから彼に重用されたのは、特定の流派に根づかず何でもこなす谷文晁のような美術家だった。
定信がとりわけ打ち込んだのは庭園。なかでも現在の築地魚河岸と朝日新聞東京本社一帯の広大な敷地に、江戸湾に面した池と、彼の出身地の白河の関をはじめ、歌枕になったいくつもの関に境界づけられた巡回庭園「浴恩園」を構築し、この会心の庭園のなかにおびただしい歌枕を埋め込んだ。ハイライトはこの景観解読のくだり。十三歳でウェイリー訳源氏物語を読んで日本学研究に入ったという「恐るべき子供(アンファンテリブル)」たる著者は、余裕綽々(しゃくしゃく)、ほとんど嬉々(きき)として数々の歌枕を解説してみせる。
もっとも「イコンの遺恨」「復古定信うじうじ(宇治橋にかけて)せず」など、言葉遊びの小気味よいジャブをかませながら進行する行文には、訳者高山宏の尽力によるところが大きいだろう。ちなみに原題の一部には「天下(日本)における恐怖と創造性」とある。内外のジャパノロジストはこれだけ「恐怖」の挑発を受けた以上、否応(いやおう)なく、「創造性」をもって応酬しないわけにはいかないだろう。
朝日新聞 2003年11月23日
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