書評
『モスクワ-ペテルブルグ縦横記』(岩波書店)
ロシアはどこに行くのか? ジャーナリズムはこの問題に関して様々な予想を立てるが、どの分析にも決定的に欠けているものが一つある。民衆の心に対する文学的な洞察力である。
たとえば、モスクワにマクドナルドが開店したとき、マスコミではずいぶんと派手に取り上げられたが、それがなぜ、あれほどの人気を呼んだかというような問題は、初めから関心の埒外(らちがい)にある。何世紀か後に、アナール派のような歴史家がこの時代を取り上げるとしたならば、こうしたメンタリティの変化こそが重要であるのに。
この点においてアナーキーの極にあるモスクワとペテルブルグ(旧レニングラード)を豊かな文学的感性をもって観察して歩いたこの報告は、貴重な証言だといっていい。
マクドナルドについていえば、この店に入ったとき、著者は「ご来店どうもありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」という店員の言葉に新鮮な驚きを感じる。なぜなら、ロシア語を学び始めてから二十年になるにもかかわらず、こうした表現が実際にロシアで使用されるのを耳にしたことは一度もなかったからである。この驚きはマクドナルドの大成功の理由をただちに理解させる。というのも、マクドナルドで、ロシア民衆は何倍も強烈な文化ショックを受けたに違いないからだ。促成栽培のロシアウォッチャーでは、こうした民衆のショックを共有することはできまい。
同じことは、ロシア版のヒットラーたる、ジリノフスキーを論じた箇所についてもいえる。すなわちジリノフスキーは世紀末ロシアが生み出した文化的現象ではないかと推測した著者は、彼の著作、『南への最後の突進』を分析し、それが「私には……がなかった」という恨みがましい思い出ばかりの「欠乏の自叙伝」であることに注目して、こういう。
そして著者は、もしかするとジリノフスキーという人間は存在せず、あれはロシアの大衆が苦しみの中から生み出した、集団的な幻影ではないかとさえ想像する。だがこの考えを聞かされたロシアの友人は、こう答える。「そう、確かに、ロシアの現実にはいつも、現実とは思えないような幻想的な面があるものさ。でもそれがロシアではリアルなんだな」
このように著者は、街頭でポルノを並べて一回十円で「立ち読み」させる珍商売に仰天したり、グム・デパートの衣料品売り場の前で自分の衣料品を「立ち売り」している人の群れに啞然(あぜん)としながらも、そうした儚(はかな)く消える現実の背後に潜むディープ・ロシアの心性に思いを馳せる。
出色のロシア文化論である。
【この書評が収録されている書籍】
 
 たとえば、モスクワにマクドナルドが開店したとき、マスコミではずいぶんと派手に取り上げられたが、それがなぜ、あれほどの人気を呼んだかというような問題は、初めから関心の埒外(らちがい)にある。何世紀か後に、アナール派のような歴史家がこの時代を取り上げるとしたならば、こうしたメンタリティの変化こそが重要であるのに。
この点においてアナーキーの極にあるモスクワとペテルブルグ(旧レニングラード)を豊かな文学的感性をもって観察して歩いたこの報告は、貴重な証言だといっていい。
マクドナルドについていえば、この店に入ったとき、著者は「ご来店どうもありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」という店員の言葉に新鮮な驚きを感じる。なぜなら、ロシア語を学び始めてから二十年になるにもかかわらず、こうした表現が実際にロシアで使用されるのを耳にしたことは一度もなかったからである。この驚きはマクドナルドの大成功の理由をただちに理解させる。というのも、マクドナルドで、ロシア民衆は何倍も強烈な文化ショックを受けたに違いないからだ。促成栽培のロシアウォッチャーでは、こうした民衆のショックを共有することはできまい。
同じことは、ロシア版のヒットラーたる、ジリノフスキーを論じた箇所についてもいえる。すなわちジリノフスキーは世紀末ロシアが生み出した文化的現象ではないかと推測した著者は、彼の著作、『南への最後の突進』を分析し、それが「私には……がなかった」という恨みがましい思い出ばかりの「欠乏の自叙伝」であることに注目して、こういう。
一つ言えるのはジリノフスキーの本全体を貫く強い『被害者意識』が、現代ロシアでは多くの人々に共通する土壌になっており、それがさらにロシア国民全体の悲運と重ね合わされているということである。(……)自分の悲惨な境遇を描き出すジリノフスキーは、奇妙な形ではあれ、『自分が不当に悲惨な目に遭わされている』といったロシア国民の多くに瀰漫(びまん)している不満をある程度まで代弁しているのである。
そして著者は、もしかするとジリノフスキーという人間は存在せず、あれはロシアの大衆が苦しみの中から生み出した、集団的な幻影ではないかとさえ想像する。だがこの考えを聞かされたロシアの友人は、こう答える。「そう、確かに、ロシアの現実にはいつも、現実とは思えないような幻想的な面があるものさ。でもそれがロシアではリアルなんだな」
このように著者は、街頭でポルノを並べて一回十円で「立ち読み」させる珍商売に仰天したり、グム・デパートの衣料品売り場の前で自分の衣料品を「立ち売り」している人の群れに啞然(あぜん)としながらも、そうした儚(はかな)く消える現実の背後に潜むディープ・ロシアの心性に思いを馳せる。
古いものの死の臭いが漂う猥雑(わいざつ)さの中には、同時に新たなものの生がすでに胚胎しているのではないだろうか。
出色のロシア文化論である。
【この書評が収録されている書籍】
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