書評
『セロトニン』(河出書房新社)
『セロトニン』の語り手はかつてフランスの農業食糧省に勤めていた農業技官の中年男性フロラン=クロード・ラブルスト。過去に愛した女性たちの記憶を手繰り寄せながら鬱々と過ごす彼は、再会した酪農家の旧友が怒れる地方住民たちと惨事を引き起こすのを目撃してしまう。なるほど〈黄色いベスト運動〉を予見したと評されるだけの小説であり、ここに描かれる政治的熱狂もまた語り尽くし甲斐があろう。しかし、評者はこの小説がなぜ読者をディテールの氾濫のなかに投げ込もうとするのかについて考えてみたい。たとえば、「キャプトンD-Lが発見されたことで、抗鬱剤の次世代に道が開かれ」たものの性欲の減退(あるいは喪失)といった副作用がある等々、前作『服従』の特徴でもあった周到な調査に基づく徹底した写実主義を踏襲しているが、18種類もの異なるクリームを塗らなければ外出さえできず、「売春」でもしなければ自活できないというラブルストの(元)恋人の日本人女性の描かれ方は、“レアリスム”を超えて女性蔑視の極みである。しかし、この物質性の氾濫に打ちのめされた語り手の生を、(ショーペンハウアーについての著書もあるウエルベックだけに)「生きる意志」のアンチテーゼとして捉えることはできないだろうか。ウエルベックはただ存在するためだけに交尾したり餌を求めたりする純粋な「生の力」(force)の象徴として〈鳥〉に言及しているが、その「生の力」を失いつつある現代人ラブルストにロマン主義的な精神性を希求させるという逆説がこのナラティヴでは見事に機能しているのである。また、資本主義が生産し続ける物たちに注視して『セロトニン』を読み返すと、精神性が空疎な観念に回収されないよう盛んに物質性を取り込んだボードレール的な〈ポエジー〉を発見することができる。スーパーマーケットの「カルフール」を反復するのも、グローバル市場に翻弄される地方の酪農家たちの窮状と現代人の消費欲を炙り出すためであろう。日常の卑近な物たちが蠢く語りのおかげで「幸せだったことがある」というラブルストの精神性の真正さにも信憑性が生まれる――読者は彼を生の歓喜から暗い深淵の底に転落させた欲望の数々を容易に想像できるのだ。彼が目を奪われるラボダンジュ湖畔の美しさが「ほとんど侮辱的」と言い表わされるのは、まさにその著しい隔たりこそ彼に美を渇望させるからである。この精神性がふと読者の琴線に触れる瞬間がある。ピンク・フロイドが奏でる「グランチェスターの牧場」の音楽が「息を呑む美しさ」である瞬間と、「生きる意志」が具象化されたかつての恋人カミーユがホームの端から息を弾ませ、「ありたけの力」でぼくの方に走ってくる瞬間である。語り手がレコードを聴いて思い出すイアン・ギランの「鳥のように」飛び立つ美もまたリリカルな演出であろう。
週刊文春 2019年11月28日
昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。